第一章:第十二話
ゆっくりと温泉を堪能した後、戻ってきた部屋でクローチを枕に心地良い眠気に微睡んだ。肌触りのいい毛並みとクローチの呼吸音、伝わる温もりにひとりではないことを感じ安堵する。
いつもの定位置も今日ばかりは空席で、華はクローチの傍から離れようとはしなかった。
『華、重い』
「ん――……、やだ。もうちょっとこうしてる」
『もうちょっとってお前な、帰って来てからずっとこうじゃないか。もうすぐ晩飯みたいだぜ。こちらに近づく人間の気配がする』
張り巡らされてある結界付近に人の気配があるのだろう。華は眠い目を擦り、渋々体を越した。陽気な日差しはいつの間にか夕焼けの陽光へ変わっていた。海へ沈む赤々と燃ゆる太陽に目を眇め、もうそんな時間なのかと思う。
「今日は歌いに行かなくちゃね」
『そうだな』
昨日はサイラスの来訪のせいで子守唄を歌いに行けなかった。クローチは力の均衡が崩れればヨーマが目覚めると言ったが、では歌が途切れた時はどうなのだろう。
この世界の平和など華には関係ない。
それなのに歌い続けるのは、それが命と引き換えに結んだ契約だからだ。
『華が嫌なら、行かなくてもいいんだぞ』
「駄目よ、歌ってあげないとあの子も寂しがってるわ。……ほら、泣き声が聞こえるでしょ」
日が沈むと、聞こえるのは海鳴りの音。華にはそれがヨーマの泣き声に聞こえて仕方がない。
『華、また後でな』
声と同時にクローチが姿を消した。時を同じくして、階段を上る複数の足音の後、扉が開いた。
先頭にはロイド、続いて夕食を持った侍女が入ってくる。華はベールを被っていないことに気づき、サッと顔を伏せた。
そうして侍女が出て行くのを待っていたのだが、今日はやけに準備が長い。部屋に入ってくる足音も多い気がした。
もしかしてまたサイラスが来たのだろうか。
よぎった不安におずおずと支度の様子を窺い見ると、
(……え?)
テーブルの上に置かれた食器から湯気が立ち上っていた。
見れば、部屋に入ってきたのはロイドと侍女だけではなかった。彼らの後にも数人の使用人が何やら荷物を持って入ってくる。
いったい、何事なのと目を丸くすれば、
「華様、ご無礼をお許しください」
と、ロイドが床に座っていた華を抱き上げ、窓際の椅子へ下した。思わず声を上げそうになり、慌てて両手で口を覆う。そこに侍女の一人が絨毯を敷き、さらに純白で毛足の長い敷物を敷いた。
むき出しの石床だった場所一面に敷かれた絨毯、テーブルには温かいスープにいつもとは違うパン、手の込んだ魚料理にデザートらしき物まで用意されていた。
手のひらを返したような待遇に呆気にとられていると、侍女と目が合った。目を逸らされるよりも早く目を逸らせば、「…ご用意が整いました」と言われた。
初めて聞いた声に今度は耳を疑う。
(私に話しかけたの……?)
掛けられた言葉が自分へ向けられたものだとはどうしても信じられなくて、思わず傍に立つロイドの手を掴んだ。大きな体躯に隠れるように身を隠せば、侍女がその面に傷心の色を浮かべた。
だが、華が侍女に怯えるのは無理のないこと。彼女もそれを十二分に理解しているからこそ甘んじて華の怯えを受け入れたのだ。
それは絨毯を敷いていた侍女も同様だった。わずかだが部屋に居たたまれなさが漂う。
戸惑う華に、彼らも困惑していた。
なぜなら華の悲痛な叫びは彼らの心を深く抉ったからだ。これまでいかに自分達が華に対し素気無く、非人道的だったかを知らしめた。
人ではないから。
どうせ食事をとらないのなら。
言葉が分からないのならば。
――なんて薄気味悪い生き物なのだろう。
彼らの心が生んだ畏れは蔑みとなり、彼らの行為が華を傷つけていることにも気づかなかった。
四年もの間、虐げられてきた異界からの来訪者の姿をようやくその目で捉えた時、彼女の孤独をも知った。
忌むべき者と呼ばれる者は、あどけない少女だったのだ。
折れそうなほど細い肢体、その体を覆う艶めく黒髪、紫色の瞳が湛えるはこの国への絶望と憎悪、そしてどうしようもないくらいの悲嘆と孤独。
厭世観すら漂わした少女はほとばしった激昂を叫び、糾弾された彼らは後悔の海へと流された。
だからと言って、彼らの悔悟などどうして華が察することができるだろう。
唯一心許している衛兵の後ろに隠れる華に、彼らは詫びる言葉すら見いだせずにいる。すまなかったで水に流せるような仕打ちでないことを自覚しているから、相応の謝意の言葉を探しているのだ。
「……失礼します」
結局、決まり文句を残して侍女たちは部屋を引き上げるしかなかった。
「あ、あの……っ」
が、そんな彼女たちを華が呼び止めた。大きな体躯から顔を出し、おろおろと視線を彷徨わせながら言葉を口に仕掛けるが、目を見張った彼らに居たたまれず、すぐにロイドの背中に顔を伏せた。
(そう…だよね。気味悪いよね)
やはり、声をかけてはいけなかったのだ。
じっと身を強張らせて彼らの退出を待っていると、「……明日は、何かお好きな食べ物がありましたら何なりとお申し付けください」と思いもよらない答えが返ってきた。
驚き、また少し顔を出せば、侍女のひとりが真っ直ぐ華を見ていた。
「あ……、え。…あの。でも、……この国の食べ物、あまり知らなくて」
食事に出てくるものはどれも似たり寄ったりなものばかりだった。大好きな物はロイドがくれるお菓子だが、それを言ってしまってもいいのか分からない。華の迂闊な行動のせいで彼がまた窮地に立たされることだけは嫌だった。
口籠ると、それを違う意味に受け取った侍女が「……申し訳ありません」と表情に影を落とした。
「甘い物などはいかがですか。アルタイヌは食の街でもあるのですよ」
貿易が盛んな国なら、各国の珍しい食材もたくさん入ってくるのだろう。
(食べてみたけれど)
これまで一度として希望を聞かれたことのない華は、たった一言の願望を口にすることもいけないことのように感じていた。
狼狽えていると、「では、何か甘い焼き菓子を」とロイドが代弁してくれた。
「華様は菓子が好きなのです」
「かしこまりました」
ロイドの言葉に頭を下げ、侍女たちは退出した。
遠ざかる足音を聞きながら、「ロイド」と力なく彼を呼んだ。
「今の、何だったの。どうして急に? ――もしかして私、明日には処刑されちゃうの…」
「滅多な事を口になさってはなりません」
間髪を容れず、ロイドが言葉を遮った。
「でも、そうじゃなかったらどうして。最期の晩餐じゃないの……?」
「違います」
きっぱりと両断され、ますます彼女たちの不可解な行動に困惑する。
では、なぜ急に彼女たちは態度を一変させたのか。様変わった室内を見つめその真意を探そうとするが、皆目見当もつかない。
怯えると、ロイドがそっと背中を撫でた。
「彼らもあなたに詫びたいと思っているのです」
「詫びる……?」
「華様を蔑ろにしてきた時間をです」
痛ましげに細められた目を見つめながら、華はロイドの言葉をゆっくりと噛み砕いた。
これが華に対する謝罪の意だというのなら、
「……怖い」
一時の感情で優しくなどされたくない。自分は“忌むべき者”だから、またいつ手のひらを返されるか分からない。
再び突き放されるくらいなら、初めからかまわないでほしかった。
彼らの謝罪を簡単に受け入れられるほど、華の負った傷は軽くはない。
きゅっとロイドの腕を握る手に力を込めた。
ロイドの時は素直に受け入れられたのに、彼女たちからの謝罪には戸惑いを覚えてしまう。
「私がお守りします、華様が私を守ってくださったように、何があろうと私のすべてをかけてあなたをお守りします」
だから、ご安心ください。とロイドは言った。
人の手で髪を撫でられ、獣の手が背中を撫でる。伝わる温もりは口先だけではないことを華に教えていた。
「……信じてもいいのかな」
もし、彼女たちが華へと歩み寄ろうとしてくれているのなら、心を開いてもいいのだろうか。