序章

 生温い風が、そよいだ。
 真夏のアスファルトから立ち上がる地熱よりずっと蒸し暑く、魚が腐ったような悪臭孕む風。
 鼻歌を歌いながら家路を歩いていた華(はな)は、感じた不快感にふと足を止めた。
 漂う腐敗臭に眉を潜めて、手の甲で鼻を擦る。

『―――』

 風に乗って、声がした。
 なぜか呼ばれているような気がして、おもむろに振り返る。その一秒後―――。
 眼前に迫る暗黒の闇、耳をつんざく轟音が響き、烈風が華の体を後方へと吹き飛ばした。
 一瞬のうちにスクールバッグが風にさらわれ、肩掛けが体から抜ける。その紐が首に絡むと、教科書が入った部分がクルクルと回転し、捩じれた肩ひもが瞬く間に首を絞め上げた。
 唐突な『死』という恐怖。
 華には想像もできない、圧倒的で絶対的な『何か』に、命の火が消されようとしている。死に直面したことがなくても、輪廻を繰り返し魂に刻まれた記憶が警鐘を掻き鳴らす。
 
 嫌、だ―――っ。
 
 華はがむしゃらに首や手を動かした。夢中で『生きる』ための選択をした。
 首から紐が外れた直後、今度は右足が何かに引っかかった。だが、今は烈風の最中。ほんの僅かな衝撃でも、まだ小さい体には大きな負荷となって還ってくる。ミシ…っと筋が軋み、直後、脚に激痛が走る。
 上げた悲鳴は轟音にかき消された。そして、一層強い風が華を吹き飛ばし、何かに全身が叩きつけられ大きく跳ねた。そのまま勢い余って二転三転と転がる。脳が揺れ、全身の機能が麻痺するほどの衝撃に、息が止まる。
 ようやく体が止まると、風は嘘のように凪いでいた。
 閉じることを忘れた双眸が、真っ白い世界を映している。

 どれくらいの時間だったのか。

 そう思ったのは、激痛に全身が焼かれるまでの、ほんのわずかな空白だった。
 自分の身に起こったことなのに、華には何ひとつ分からない。あまりにも唐突で、衝撃的で、現実味がない。
 闇に飲み込まれ、風にさらわれ、この場所へ行き着いた。
 ―――ならば、此処はどこ。
 少なくとも、華の知らない場所であることは確かだ。

(―――来た…)

 稲妻に打たれたように、体を一直線に駆け抜けた痛みが、末端神経までをも侵す。
 ひゅっと喉を鳴らし、空気が肺に飛び込んでくる。体が酸素を取り込むと、途端『痛み』が全身を襲った。もう自分のものではないような脚から、尋常でない痛みが登ってくる。脂汗を噴き出し、涙が溢れても、それは容赦なく華に襲いかかってきた。
 のたうち回りたいのに、そんな余裕もない。血流に乗って全身を駆け巡る痛みに胸を焼かれ、床に爪を立てて掻きむしった。
 鼓膜のすぐ傍で、ドクドク…とうるさいほどの重低音が鳴り響く。

「あ、あぁっ、あぁぁぁぁ―――っ!!」

 絶叫が白い世界に木霊した時、

『―――なんだ、この小娘は』

 低い声が響いた。



inserted by FC2 system