第二章:第壱話

「えっ、ロイドが休暇?」

 その日やってきた見慣れぬ衛兵について侍女に尋ねると、そんな答えが返ってきた。

「はい。家庭の事情だと言うことです。今朝、急きょ申請があったとかで」
「今朝? ……そうなんだ。なら仕方ないね」

 “聞いてない!”と内心で膨らんだ不満も、侍女の言葉ですぅっと凪いだ。だが、代わりに湧き上がってきたのはロイドから“家庭”という言葉が出てきたことへのショックだった。
 ずっと一緒にいたからか、いつの間にか華が知る事柄だけがロイドのすべてだと思っていた。
 だが、考えてみれば至極当たり前のことなのだ。彼には帰る家があり、彼を待っている家族がいる。

(ロイドの家族か……、どんな人達なんだろう)

 そう言えばロイドはいくつなんだろう。成人はしているだろうが、獣の顔とその体躯のせいでちっとも年齢が分からない。

(――奥さんとかいるのかな?)

 いてもおかしくない推測が、ツキン……と胸を刺した。
 思えば彼と話すようになって随分経つのに、華はロイドのことをあまり知らない。八歳になる妹がいるというくらいだ。
 傍にいないと思うと、途端に不安になってくる。

「休暇、長いのかな……」
「お寂しいですか?」

 いつの間にか心の声が呟きとなっていたらしい。顔を上げると、侍女が華を労わるように微笑んでいた。

「無理もありませんわ。華様が一番心を許しておられるのは彼なのですもの」
「――休暇の理由って、聞いてもいい?」
「妹の看病だそうです。今、学校で麻疹が流行しているのです。妹がもらってきた麻疹に一緒に暮らしている伯母もかかってしまい、それでやむを得ず休暇を申請したとのことですわ。それに、ロイドもかかっていたのなら華様にも移ってしまう可能性もあります」
「それはいいんだけれど……。なんだ、そうだったのね」

 侍女の話から彼が妹と伯母との三人暮らしだということが分かった。妻がいなくてよかった、と安堵を零す。

「華様? どうかなさいまして」
「う、ううん! 何でもないわ」

 胸を撫で下ろした華に、侍女は怪訝な顔をした。
 まさか、ロイドが独身だったことにホッとしたなんて言えない。

「けれど、彼もそろそろ繁殖期ですし。これを機につがいを求めるのかも知れませんね」
「……繁殖期?」

 聞き馴染みのない単語に、ほっとした心臓がズクン…と嫌な音を立てた。

「あら、華様はまだ半獣達の生態をご存知ではありませんでしたのね。彼等と人間との違いは外見や身体能力もそうですが、彼等には年に二度、繁殖期と呼ばれる時期が訪れるのです。その時期になると、彼等からは特別な香りが漂うのですが、……ここだけの話、あれは自然界の媚薬です。あまりにも強力なゆえ、人間の間でも類似品が出回るほど効果はてき面に現れるのですよ。幸いロイドにはまだ一度も来ていないようですが、華様もくれぐれもご注意くださいましね」

(ご注意くださいましね、って言われても、そんなものをどうやって?)

 いわばフェロモンのようなものなのだろう。彼等には抑える術がないのだとしたら、ほぼ垂れ流しになっているものにどうやって対応しろというのか。
 華のいた世界でも春になると発情した猫の声がよく聞こえていた。あれと似たようなものが彼達にも訪れるのだろう。

(人間をも惑わす強力なフェロモン……か)

 そう遠くないうちにロイドからも香ってくるのか。それに惹かれたくさんの女の人が彼を欲するようになる。
 なんだか、心が地面に叩きつられた気分だ。

(――つがい、ロイドの奥さん)

 あぁ、彼はどんな人を伴侶とするのだろう。

(ロイドは優しいし、心は広いし温かいし、傍にいるとものすごく安心できるし、寡黙に見えるけど人情的な人だし。絶対モテるに決まってるわ)

 彼以外の半獣を見たことはないが、ロイドはなかなかいい顔立ちをしていると思う。毛並みも美しいし、なにより力強い目が素敵だ。同類の女性ならもちろん、人間であっても彼の人となりに触れたら、その見た目に関係なく心奪われる人もいるだろう。もし、彼もその人のことを好きになれば、生涯の相手にと望むのはごく自然のことだ。

(そうなったら今度こそ衛兵も辞めちゃうんだろうな。私の警護なんかじゃなくもっと割のいい、毎日家に帰れる部署へ移るのかも知れない)

 彼のことだ。華よりも大事なものができたのなら、迷うことなくそちらを選ぶはずだ。
 その時、自分は笑ってロイドの幸せを祝福できるだろうか。

(――いかないで、ってごねちゃいそうだわ)

 クローチと魂を分け合った華は彼等と時の長さが違う。引き留めたところで華はロイドに幸せを与えることなどできやしないというのに。
 それでも、どうしてかロイドのことを考えると心が騒めく。
 独身であることを気にしたり、未来の奥さんのことを想像して落ち込んだり。なんだかこれでは彼に恋してるみたいじゃない。

(あー、やめやめ! 気分転換にあの子の様子でも見てこようっと)

 手ずから恋の暗示をかけてどうする。『忌むべき者』に想いを寄せられること自体、迷惑に決まっている。
 これ以上、ロイドに迷惑をかけちゃいけない。

「クローチ、ちょっと中庭まで行ってくるね」
『……おぉ、気をつけろよ』
「大丈夫!」

 杖を持ち、部屋を出て行く華をクローチはお気に入りのラグに寝そべりながら、やれやれと嘆息した。

『……思考が全部筒抜けだっつうの』

☆★☆

 ロイドの代わりに来た者は華を『忌むべき者』として見ていた。華を見る目は畏怖を孕み、心なしか体を遠ざけながら対応された。中庭へはひとりで行くと告げた時のあのホッとした表情に、未だ自分がすべての人達に肯定されたわけではないのだと感じた。
 受け入れられる喜びは拒絶される痛みを癒してくれたと思っていたけれど……。
 たとえ自分には直接関係のない人でも、嫌悪を感じれば心は痛むのだ。
 華は杖を突きながらゆっくりと中庭へ向かった。回廊から見える空は青い。が、吹く風が運んでくる匂いが雨の匂いを孕んでいた。もうすぐ雨が降るのだろう。
 中庭に入ると、またサイラス達がいた。

(本当に政務はどうしたのよ……)

 半ばうんざりしながらも、ここまで頻繁に顔を合わせればさすがに順応せざるを得ない。何食わぬ顔で彼等の前を通り過ぎることにも慣れた。

「ごきげんよう、華様」
「こんにちは」

 はじめこそ、華の顔を見たら言わねばらなぬとばかりに蔑みを寄越していたサイラスだったが、最近はようやく無視をすることを覚えたらしく、こちらを見ることはない。
 対照的なユーグのにこやかな挨拶も毎度のことだ。が、今日はいつもと様子が違った。

「華様、護衛もつけず一人で出歩かれるのは不用心ですよ」

 ユーグは中庭の入り口を見遣り、華がひとりであることを知るや否や、細い眦をさらに細めた。眉間に皺を寄せ滲ませた不快は華の軽率さに対してなのだろう。

「なぜ衛兵を伴わないのです。何の為の彼等だとお考えですか?」

 華の盾となり矛となる為。とでも言えというのか。
 考えるも何も、その盾が華を疎んじたのだ。

「――私が要らないと言ったのよ。どうせここにはロイド以外は入れないのだし、それにすぐ帰るわ」
「華様はアルタイヌの正妃であられるお方なのです。万が一の事態を未然に防ぐ術を怠ってはなりません」
「そう。これからは気をつけるわね」

 華に正妃の立場を説く意味があるのかははなはだ疑問だったが、雨が降る前に部屋に戻りたかった華は、神妙な顔で頷いておくことにした。ユーグも華が大人しく忠告を受け入れたことでそれ以上の小言は言わなかった。
 そうして、やっと東屋へ辿り着く。

輝夜カグヤ、元気?」

 そっと手で茂みを押し開き、巣を覗き込んだ。一羽の雛鳥が蹲って目を閉じている。この鳥は雛ですらあまり鳴くことはないのだとか。

(せめて身の危険があるときは鳴こう?)

 まさか親鳥とはぐれても鳴かないものとは思わなかった。なら、この子はいつ鳴くのだろう。巣の真ん中でちょこんと在る姿はまさにぬいぐるみだ。手のひらに収まるほど小さな黒色の毛玉を撫でてやると、つぶらな目がこちらを見た。

「ご飯持ってきたよ、輝夜」

 輝夜かぐや。それが雛鳥につけた名だ。
 出かける時に懐に入れてきた包みを取り出し、中に入っている実を手のひらに広げて近づけると、すぐに小さなくちばしが突いてきた。

「そんなに急がなくても、誰もとらないから大丈夫よ」

 夢中で餌を食べる雛を見ていると、愛おしさがこみ上げてくる。

(可愛いな)

 いずれ巣立ち、華のことを忘れてしまうだろうが、それまでは精一杯愛情を注いであげたい。

「お前。本当に真っ黒ね」

 輝夜は成鳥になったらどんな姿になるのだろう。毛並みの色からカラスを想像するが、思えばカラスの雛がどんな姿なのかも知らない。今度、ロイドに頼んで図鑑を持ってきてもらおうか。
 そんなことをつらつらと考えているうちに、輝夜はすっかり満腹になったらしく、また目を閉じて眠り出した。

「もう寝ちゃうんだ」

 少しはかまって欲しいのに、と愚痴りながらも元気に育ってくれている姿を見るのは嬉しい。
 たくさん食べて、大きくなって。
 空になった包みを畳んでいると、遠くから雷鳴が聞こえた。見上げれば、いつの間にか空は灰色の雨雲に覆われていた。
 もうあんなに薄暗い。

(早く帰らないと)

 雨が降ると、膝が痛む時がある。湿度のせいなのか、雨で下がる気温が膝を冷やすのかは分からないが、ロイドが傍にいないのに途中で歩けなくなったらと思うと気が気じゃなかった。

「それじゃ、また来るわね」

 折りたたんだ包みをまた懐にしまい、杖を取って東屋を出た。急ぎ足で中庭を歩くが如何せん広いだけあって、なかなか入り口に着かない。ロイドがいたなら抱き上げて運んでくれるのに、とつくづくロイドに甘えている自分に気づく。風が孕む雨の匂いが一段と濃くなっている。風が強くなったと思った時には、雨粒が頬に当たった。

(急がなくっちゃ)

 本降りになる前に建物の中に入らなけば、と思った矢先だ。

「きゃっ!」

 地響きがするほどの雷鳴に、思わず耳を塞いでその場に蹲った。直後、大粒の雨が当たり一帯に叩きつけるようにして振ってきた。みるみる濡れ鼠になっていく華に、

「何をしてる! 立ち止まる奴があるか!」

 怒声が飛んで、いきなり体が宙に浮いた。それが人の腕によるものだと気づいた時には、白銀の髪が目の前にあった。
 


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