第二章:第二話
――これほど近くからこの男を見たことがあっただろうか。
サイラスは華を抱き上げると足早に中庭を出た。が、通り雨と呼ぶには相応しくないほどの集中豪雨だ。回廊にたどり着く頃には互いにびしょ濡れになっていた。滴る滴がみるみる床を濡らしていく。
だが、そんなことも気にしていられないくらい華は呆然とサイラスの横顔を凝視していた。どうしてこの状況が現実だと思えるだろう。
(な……に?)
目の前に端正な横顔がある。髪から滴り落ちた水滴が流麗な線を描いて頬を流れた。
(サイラス? でも、どうして……。何で)
ゆるりと、青い目が華に向けられた。
すると、たちまち現状に震え上がった。あらん限り目を見開き、こみ上げる恐怖に絶叫を迸る。
「い……やぁぁぁぁ――っ!! 離してぇぇっ!!」
金切り声を上げ、全力でサイラスを拒絶した。
「やぁぁぁ――っ!! ロイド、ロイド―――ッ!!」
助けて、助けてっ、助けて!!
サイラスに触れていると思っただけで、身の毛がよだつ。また暴力を振るわれるのかと考えただけで涙が出た。
なぜもどうしても知らなくていい。ただ今は彼から一歩でも遠くへ逃げたかった。
「暴れるな! 落ちるぞ」
「やぁぁぁっ、やだぁぁぁ――ッ!! 離してぇっ!」
がむしゃらに振り回した手が彼の顎に当たった。僅かに腕の力が緩むと、
「きゃあっ!」
支えを失った体が落下する。それでも体を床に打ちつけなかったのは、咄嗟にサイラスが華の腰を支えたからだ。が、急激に体重をかけたせいで膝に激痛が走った。痛みに顔を顰めながらも、なおも彼の手を振り払おうともがいていると、ついには痛苦に耐え切れなくなった膝が悲鳴を上げた。がくり、と膝が抜ける。華の邪魔をする腕が憎らしくて、噛みついた。
「き……、さま!」
罵声に体が竦む。また暴力を振るわれる!
そのまま、床に転がるようにしてサイラスの腕から逃げ出した。一秒でも早く逃げなければと必死になって杖を探していたところで、気がついた。いつもなら間髪を容れずにやってきた苦痛が、いつまで経っても苦痛が襲ってこなかったからだ。訝しみ、ゆるゆると顔を向ける。すると、驚愕の表情で固まっているサイラスがいた。
(なに……?)
そろそろと彼の視線が釘付けになっている場所を視線で追いかける。衣服の裾がめくれ上がり、脚が露わになっていた。
急いで裾の乱れを整えるが、「……何だ、それは」と掠れた声が問うた。
サイラスが見たのは青紫色に変色した膝と、無数の鞭打ちでできた痕。外側に向いたまま固まった醜い脚だ。
何を今知ったようなことを言っているのだろう。
――全部、サイラスが命じてやらせたことじゃないか。
不思議なもので、彼の驚愕を目にした瞬間、怖れが唐突に消えた。
「――杖を返して」
自分でも信じられないくらい抑揚のない声が出ていた。
「答えろ、その脚はどうしたんだ」
「早く杖を返して! どこへやったのよッ!?」
濃い霧の結界に覆われているせいで、中庭の様子が窺い知れない。が、ここに杖がないのなら、サイラスに捕まった場所に置き去りになっているのだ。
両手を使って回廊の端まで這う。壁を使ってのろのろと立ち上がる様はさぞ無様に映っているだろう。
けれど、それがどうした。
(こんなことで傷つかないんだから)
もう一度、中庭へ入って行こうとしたところで、再び体の自由が奪われた。サイラスが華を抱き上げたからだ。
「何するのよっ、放して!!」
露骨な敵愾心にもサイラスは怯みはしなかった。
「そんな脚で何ができると言うのだ。杖なら取ってこさせる。だから、大人しくしていろ」
「嫌よ、どうしてあなたの命令なんて聞かなくちゃいけないの!? 構わないでと言ってるでしょう!」
「あぁ、うるさい奴だ」
そう言って、華を抱きかかえたままどこかへ歩き出した。華が来た道とは違う方向に向かっていることに不安が沸き起こる。
「どこに行くの!? 降ろしてよ! 私に触らないでっ」
全力の抵抗も横抱きが縦抱きになった程度だった。終いには荷物のように肩に担ぎ上げられ、悔し紛れにサイラスの背中を両手でこれでもかと叩く。髪を引っ張り、「放して!」と喚き散らしたが、サイラスは歩みを止めることも、華の抵抗を御することもしなかった。
長い回廊をサイラスはどんどん進んでいく。やがて建物の中に入っていった。そこはこれまで華が一度も足を踏み入れたことのない区域だった。
華のいるどこもかしこもむき出しの石に囲まれた侘しいところとは比べ物にならないほど、豪華で明るい場所。クリーム色の壁と赤色の絨毯が印象的だった。
次第に、人とすれ違うようになった。誰もが華を見て足を止める。瞠目する彼等の好奇と畏怖がない交ぜになった視線を一身に浴び、華は抵抗どころではなくなった。ベールがない今、華の姿を隠す物はない。慌てて顔を伏せ、体を強張らせた。
急に大人しくなった理由を知らないサイラスは当然、華を気遣うことはなかった。
(クローチ、ロイド……。助けて)
梁の筵に座らされた者の気持ちなど、きっとこの男には分かるはずがない。
そうして彼の背中に顔を伏せていると、しばらくしてとある一室に連れて来られた。ふわりと感じた湯気に恐る恐る顔を上げれば、そこは浴室だった。ひとりで使うには贅沢すぎる大浴場だ。
サイラスは華を床に降ろした。
「侍女を呼ぶ。その濡れた体を何とかしろ」
つまり、風呂に入って着替えろと言っているのだろう。だが、華はとんでもないと首を横に振った。
「……いらない。部屋に帰して」
「風呂を浴びたらな」
「だったら、向こうで入る。だから帰りたい」
「お前には聞きたいことがある。それが済むまではここにいろ」
今更、何を聞き出そうというのか。
「――帰りたい、もう帰して。かまわないで」
「誰か、ここへ」
耳を貸すだけ時間の無駄だと判断したのか。
懇願を無視して、サイラスが人を呼んだ。あくまで我を通さんとする男が憎らしくて、泣きたくなった。
サイラスは何も分かっていない。何ひとつとして分かろうとしていない。
「いらない! 止めて、人なんて呼ばないで!」
「お前の我が儘に付き合うつもりはない。王族は傅かれるものだ、慣れろ」
「私は王族じゃない! 本当にいらないの。お願い、止めて!!」
ここへ来るときに感じた視線で気づいた。華を受け入れてくれているのは王宮でもほんの一部の者だけなのだ。この場所はおそらくサイラスの居住区なのだろう。華を見る目は明らかに同族を見る目ではなかった。ここでは華は今もってなお『忌むべき者』なのだ。
そんな彼等が華の体を見たら、どう思うだろう。
これ以上傷つきたくない。
けれど、サイラスは華の心を慮ってはくれない。嫌がる理由すら聞こうとしない。
――だったら……。
「……見るといいよ。どうして私が人を呼びたくないのか」
意を決して、華は衣服に手をかけた。詰襟のドレスのボタンをひとつずつ外していく。
サイラスは何も言わない。
きっと側室で慣れているのだろう。けれど、自分達の間に色事の気配は微塵もない。当たり前だ、私達は互いにいがみ合っているのだもの。
本当はこんなことしたくない。でも、彼を納得させるにはこの方法しか思いつかなかった。
するり、と床に落ちたドレスから現れた裸体に、頭上からは息を呑む音が聞こえた。
サイラスがどんな表情で華を見ているかなんて、想像に容易かった。それでも、顔を上げていることなんてできなかった。
彼のことだ。きっと穢れた物を見る目で蔑んでいるに違いない。
体中に刻まれた鞭の痕。それは華に向けられた憎しみだった。クローチの力をもってしてでも消せなかった痕を自ら人の目に晒す日がくるなんて、思いもしなかった。
「――分かったでしょ、誰もこんな体に触りたくないもの。私だって見せたくない。だから人は呼ばないで。どうしても帰れないのならひとりで浴びるわ」
返事がないのは、納得したということなのだろうか。
おそるおそる顔を上げれば、茫然としながらも目を見張ったままのサイラスがいた。華と目が合うと、ビクリと肩を揺らした。すぐに辺りを見渡し、舌打ちすると急いで彼が着ていた外套で華の全身を隠した。
意表を突かれたのは、華の方だった。
目を丸くすれば、なぜかその美貌に傷心を浮かべている。苦しげに表情を歪ませ「……よくわかった」とだけ言い残して、足早に浴室を出て行った。
ひとり取り残された華は、ただただ茫然と立ち尽くしていた。