第二章:第七話
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『華、まだへそ曲げてんのかよ』
霊峰の中腹で、前足に顔を乗せて寝そべっていたクローチが物言いたげな顔で華を見た。
「……別に」
『別にって顔してないだろ。そろそろアイツに顔くらいみせてやんなくていいのか? すげぇ、心配してるぞ』
アイツ、の言葉にロイドの顔が浮かんだ。
「――ロイド、もう戻って来てるんだよね……」
あれからどれくらい時間が経ったのだろう。日が昇り暮れていくのを数えるのも飽きるくらい、長い間ここに留まっている気がする。
『主のいない部屋を律儀に守ってるよ。華が塞ぎ込んでるのは自分が側を離れたせいだと思ってるみたいだぞ』
「そんなわけない!」
岩の上にいた華はパッと髪をひるがえして、クローチを見た。
『だったら、そう本人に言ってやれよ』
「――」
クローチの言い分はもっともだ。華のわがままのせいで、ロイドにまで迷惑をかけている。けれど、自分が塔に居ることが知られれば、あの男は必ずやってくる。それが嫌だから霊峰に逃げているのだ。
『どのみち、このままで済むわけないだろ』
「――でも、そのうち嫌気がして諦めたり…」
『すると思うか? どのスイッチが入ったのか、いたく華にご執心になってただろ』
まったくだ。
つくづく傷を見せたのは失敗だった。あれでサイラスの良心に火をつけてしまったのだろう。中途半端な関心を向けられることほど迷惑なことなどないのに。
『あの小童、毎日お前のために花を届けさせてるぞ。ルチアの花だ』
「花はこれまでだって届いてたじゃない」
首を傾げれば、クローチは分かってないと言わんばかりに首を横に振った。
『ルチアは王宮のあの庭にしか咲いていない、王族しか手折ることの許されていない花なんだぜ』
「だから?」
『アイツは毎朝、お前のためにあれを摘みに行ってるってことだ。あの高慢の塊みたいな男がだぞ』
サイラスの行動にどんな意味があるのかなんて、華は知りたくなかった。
いきなり手のひらを返して好意を押しつけられても、応えられるはずがないじゃないか。
華はサイラスのことが世界で一番嫌いなのだ。かかわり合いになりたくないと何度も言っているのに、なぜ……。
(でも、知りたくなんてない)
きゅっと下唇を噛みしめ、降って湧いた災難を恨む。
これまでなら、気が済むまでこの場に留まっていることに何の躊躇いも覚えなかった。けれど、今の自分には案じてくれる人が居る。ロイドだ。
華はほっと諦めたように息をついた。
「帰るよ」
きっとサイラスはやってくるだろう。その時はまた追い返せばいい。華が許した者以外は結界を抜けさせなければ良いのだ。
「帰ろう、クローチ」
ヨーマの泣き声も今は聞こえない。
この子が目覚めるのは、まだもう少し先のはずだ。
華の言葉に、クローチものそりと身体を起こした。
クローチの背に乗り、亜空間を抜ける。部屋に舞い降りてしばらくすると、階段を駆け上ってくる足音がした。
「華様!?」
控えめとは言いがたい扉を叩く音に、華とクローチは顔を見合わせて苦笑した。
『ほらな』
「うん」
華は杖をついて扉の前に行くと、ゆっくりとそれを押し開ける。久しぶりに見たロイドは少しだけ憔悴しているようにも見えた。
「華様……」
「ごめんね。ロイ……ッ」
言い終える前に、獣の腕が華の腰を攫った。硬く冷たい甲冑が頬に当たる。が、そんなことは気にも留めず、ロイドが華を強く抱きしめた。
「よかった……、もうお目にかかれないのかと思っていました……」
心の底から絞り出すような、喘ぎに似た声音。ロイドの身体は小さく震えていた。
あぁ、心配させたんだ。
実感すると、申し訳なさと嬉しさがこみ上げてくる。ほんの少しだけ喜びが大きいのは絶対にロイドには内緒だ。
頬に当たる鎧は冷たいのに、身体が温かい。大きな身体に包まれているせいだからだろうか。
身体の力を抜いて、ロイドにもたれかかった。
「心配かけてごめんなさい」
「どうか約束してください。二度と私に何も言わずこのようなことはなさらないでください。お願いします」
「ロイド?」
ぎゅっと抱きしめる腕に力が込められた。
「お願いします」
懇願に次ぐ懇願に、華はもう頷くしかなかった。
「……うん、もうしないよ」
そっと大きな身体に手を回して、抱きしめた。伝わる体温の熱さに、自分はこの地に一本の絆の楔を打ち込んでしまったことに気づく。
クローチにはアルタイヌの存在とはかかわり合いになるなと言われていたけれど、ロイドとの関係を今さらなかったことにするなど、華にはできなかった。
抱きしめられているのに、まるで彼を抱きしめているみたいだ。大きな身体で縋り付かれる心地よさは悪くない。
華はロイドの震えが収まるまで黙って、彼の好きなようにさせていた。
(あ、なんだかすごく安心する……)
『お熱いことで』
だが、せっかくの良い気持ちに水を差したのは、クローチだった。
「ちょっと、何てこと言うのよ。ロイドが心配してるから顔見せろと言ったのは、クローチでしょ」
『抱き合えとは言ってない』
「これは、友情を確かめ合ってたの! 変な勘ぐりしないで」
空気を読めない霊獣にムッとすると、クローチは面白そうに目を細めた。
『友情ねぇ』
奥歯に挟まったような物言いは、まっすぐロイドに向けられていた。
『立場を見誤るなよ。お前はただの衛兵だ』
棘のある言い方に華が「クローチ」と諫めるも、クローチはまったく意に介していない。
『華がお前に誓うことなど、ない』
「クローチったら!」
「――承知しております。申し訳ありませんでした」
ロイドは身体を強ばらせながらも、クローチの言葉に従った。
「華様も申し訳ありませんでした」
「気にしないで。私は嬉しかったよ」
身体を離されて途端に寂しくなった。慌てて引き止めようとするも、『華』と今度はクローチに諫められた。
「陛下からの贈り物を承っております。しばしお待ちください」
そう言って、ロイドが階段を降りていった。
「もう! あんな言い方あんまりよ。ロイドに失礼じゃない」
『立場を思い出させただけだろ』
「さっきは“ロイドが心配している”とか言って気にかけてたくせに。霊峰にいたときと言ってることが全然違う」
「華」
むくれる華をクローチが冷ややかな目で見た。
『お前は誰かの特別にはなれない』
「そ、そんな言い方……っ」
『それとも、ロイドに惚れたか? あいつは優しい男だ。お前を慈しみ、愛してている。だが、なれ合いはするな。俺が目を瞑ってやれるのはつかの間の友達ごっこだけだ。俺たちとあいつでは生きている次元が違う』
「――ッ」
言われなくても、自分がみんなと違うことはわかっている。
クローチに命を分け与えられたことで、華の身体は成長を止め、永久の時間を手に入れた。
それを悔やんだりはしない。
クローチがいたからこそ、華は今こうしていられる。
誰ともなれ合うつもりなどなかった。
でも、思いがけなくロイドとの交流が始まり、彼がくれる優しさに絆された。
アルタイヌ国に来て、ロイドだけが華を受け入れてくれたから。
半獣がこの国でどういう立場にあろうと、華には関係なかった。
華が好きなのはロイドという存在。
彼を思うと、心が弾んだり、沈んだりする。この気持ちが何なのか、華は知りたくなかった。
なぜなら、知ったところで自分たちは決して寄り添えないからだ。
華はこの国の忌むべき者。そして、霊峰に眠るヨーマの守り人だ。
(でも、……友達ごっこなんて言い方はない……)
クローチを直視できなくて、俯いた。
優しくされたら嬉しいと思うのは、そんなにもいけないことだろうか。自分もその人を大切にしたい、優しくしたいと思うのは許されないのか。
クローチと二人だけでいたときは考えなくてよかったことが、華を悩ませる。
「……ごめんなさい……」
それでも、華がまず言うべき言葉はクローチへの謝罪だと思った。
すると、クローチも小さく息を吐いた。
『……わかればいいんだ。距離感を間違えれば、互いに傷を作ることになるからな』
少し優しくなった口調に、乃々香は顔を上げた。
クローチを見つめれば、居心地悪そうに顔を背けられた。
(もしかして、クローチも同じ思いをしたことがあるの?)
言われた言葉が妙に実感が籠もっていたように聞こえたのは、気のせいだろうか。
経験したからこそ、華に忠告……いや助言したのだ。
そう思えたのは、クローチの性格を知っていたからだ。
彼は厳しいことも言うが、非情ではない。思いやりも優しさもちゃんと持っている。
「うん。……ちゃんと考えるから」
だから、するりとクローチの言葉を聞き入れることができた。