第二章:第六話

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 今、華の住む北の塔は、完全な孤立状態にあった。なぜなら、クローチが張った結界が彼らをたちどころに惑わせるからだ。華の部屋に続く階段は招かざる者を延々と上り続けさせる。が、気がつけばいつの間にか階段を下っている。そうして、北の塔の入り口に立ち戻らせた。狐につままれたような顔をする彼らの横目に、塔の守人であるロイドはそっと嘆息をついた。
 彼の側には十本のルチアの花がある。
 それは、塔の主である華が部屋に籠もって、もう十日目になることを示していた。その間、食事に手をつけた形跡はない。彼女と交流を持つようになってから、こんなにも長い間、顔を見ないことはなかった。果たして、華が本当に部屋に居るのかも分からない。
 彼女の部屋からは杖をつく音すらしないからだ。
 どうしてこんなことになってしまったのか。
 あの日、自分が休暇を取らなければ、状況は違っていただろうか。起きてしまったことを悔やんだところで何の解決にもなりはしないのに、胸に広がる後悔が陰鬱な気持ちにさせる。
 突然、心を閉ざしてしまったロイドだけの小さな姫。叶うなら、その理由を話して欲しい。
 自分にできることがあるのなら、何だってしてみせる。何と引き替えにしても守ると、この魂に誓ったのだ。
 異界から来た小さな少女が、愛おしすぎて苦しい。
(華様――)
 だから、どうか。私の存在までも拒まないでください。

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「アレはまだ結界を解かんのか」

 執務室から華が消えた中庭を見るともなく眺めながら、サイラスが言った。

「すべてはサイラス様の振る舞いのせいですね。華様は野生の獣も同然。しかも、我々の仕打ちで傷を負った手負いの獣です。それを、いきなり愛玩用に躾けようなど横暴もいいところです。せっかくお心を開きかけておられたのに、余計なことをしてくださいましたね」

 余計なこと。
 断言され、サイラスはムッと眉間にしわを寄せた。

「愛玩用になど使用とはしていない。話をしようとしただけだ」

「それが、余計なことなのです。華様がサイラス様によい感情をお持ちになっておられないことくらい、ご存じのはずでしょう? これまでのご自身の振る舞いをよもやお忘れになったとは言わせませんよ。にもかかわらず、一方的に和解を迫ろうとするなど、もう一度、帝王学を一から学び直されてはいかがですか?」
「華への対応と帝王学が何だというのだ」
「サイラス様は散々植民地として扱ってきた国を、何の通達もなく同盟国にされますか? それに対し、相手国が諸手を挙げて喜ぶとでも? 常識ある者ならばあなたの行動にまず警戒し、その裏にある魂胆を疑うでしょう。華様も同じです。いきなりすべてを話せと言われても、信用のない相手に語る言葉などありません」

 痛烈な批判は、どれも正論だった。
 あの一件から華への境遇に理解は示したつもりだったが、何一つ華には届いていなかったということだ。

(――当然……か)

 近づくことすら許してはもらえないのに、心を開けなどどだい無理な要求だったのだ。
 それでも、話さなければいけないと思った。何でもいいから、華との繋がりを作らなければと焦っていた。
 華を抱きしめた時の感触は、十日経った今でも腕に残っている。
 軽すぎる存在だったことも、傷だらけの体を見たことも、徹底的に拒絶されたことも。すべてが衝撃的で忘れられない。政務におわれながらも、頭の片隅では華の存在を気にかけていた。
 あの日から、ずっと続く鈍痛がある。
 華は今、何をしているのだろう。
 十日もの間、誰一人として華の姿を見ていない。あのロイドですら、食事を運ぶことはできても、華との面会は叶わないのだ。
 これまでにも華が滅多に食事を取らないことは知っていた。薄暗い塔の中でベールを被り、窓の外ばかりを見ている薄気味悪い存在。衰弱することも、やせ衰えることもない姿を、誰しもが異質だと恐れた。ならば、今回の断食も華にしてみれば、たいしたことではないのかもしれない。
 だが、果たしてそんな人間が居るのか――?
 華に関して、サイラスは何も知らない。なぜ、食事を必要としないのかも、どのようにして霊峰にしか実らないナルの実を入手したのかも、聖獣クローチと知り合うことになったのかもだ。

(華は本当に人ではないのか……?)

 だとしたら、華は何者なのか。
 クローチは知る必要のないことだと、一笑に付した。
 だが、そんなはずはない。華をアルタイヌ国に召還したのは、自分だ。
 サイラスには華への責任がある。

「花は届けているか?」
「はい。ですが、華様は受け取ってはおられないようです」

 すべて、ロイドの元で一時的に管理されていることを告げられると、サイラスはやりきれなさをはき出した。
 八方ふさがりとは、まさにこのことだ。
 今のサイラスに華の心を開かせる術はない。どうすれば、もう一度、華に会えるのか。
 自分で招いた事態であるのに、収拾するべき策が一つもないのだ。これまで、いかに華の存在を無視してきたのかを痛感させられた。
 自分は、華の好きなもの一つ知らない。知っているのは、彼女がこの国もサイラスのことも嫌っているという事実だけ。
 突きつけられた現実に、胸が軋むほど痛い。
 だが、打ちひしがれるだけが、今自分のすべきことではないこともサイラスは知っていた。

(ならば、これから知ればいい)

 彼女の好きなこと、望むもの。
 華の望みは元の世界に戻ること。けれど、それは現時点において不可能だ。ならば、せめて二番目に望むことくらいは叶えてやるべきだ。
 ふと、その時。視線の先に東屋が目に留まった。

「そういえば、華はよくあそこに居たな」
「はい。ラクシャの巣があるのです。雛が一羽、孵っているのです」
「珍しいな、あれの卵は滅多と孵ることがないはずだ」

 ラクシャが人の居住区に巣を作ることも稀だというのに、雛まで孵っているのだ。
 鳴かない鳥ゆえ、茂みに隠れているのなら存在そのものも気づかれにくい。ましては、巣のある場所は王族専用の中庭だ。

「そうか、あれは雛を見に来ていたのか」

 サイラスにはまったく興味を示さないくせに、他の生き物には心を配るのか。
 そう考えたとき、ふと妙案が浮かんだ。

「明日からは、花と一緒に雛の成長具合も添えておけ」

 華の心を開かせられるのは、もしかしたら純粋な命だけなのかもしれない。姑息な策だと分かっていても、サイラスは華に会いたかった。



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