第一章:第壱話
激痛に悶える最中、抑揚のない声が落ちた。冷たく、そのくせ艶のある低音。
身を焼く痛みに顔を歪めながら、華は知らない声にのろのろと視線を上げた。
『これが、お前の申した“完璧な女”か』
華の見下ろす紺碧色(こんぺきいろ)の双眸が、声音よりも冷え冷えとした嫌悪と侮蔑を孕んでいる。なんて冷たい目をする男だ。
そして、なんて美しい人なんだろう。
月の光を紡いだたなびく銀髪、海の鮮やかさを称えた碧眼は神々しく、眩しい。造形美が作り出す気品と纏う覇気に、ほんのわずかだけ痛みが遠のいた。
(だ……、れ…?)
これは誰だ。なぜ、そんな目で見ているのか。
だが、制御不能の痛みがすぐに意識を現実へと引きずり戻す。今は考えることさえ許されなかった。
「た…す、」
『も、申し訳ございませんっ。ただ今、原因の究明をっ』
『言い訳など要らぬわ。……よりにもよって、黒目黒髪など。お前はこれを我が正妃に据えよと申すか』
助けを求めた声は、狼狽する老いた声にかき消された。そして、その声を断ち切ったのは、この美丈夫。
(せい…ひ…?)
地獄の業火に焼かれているようだ。全身を無作為に刺す鋭い痛みと熱に、呼吸が苦しい。掻きむしりすぎた指の先からは、爪が割れて血が滲んでいた。
男が発した単語が何を意味しているかなど悠長に思う余裕なんてない。命までも焼きつくす激痛に、いっそのことこの足をもぎ取ってほしいとすら思った。
「たす…け、てっ!!」
途切れ途切れになる声を必死に集め、目の前の男の足に手を伸ばす。震える手がつま先まであと少しのところまで来た時、不意にそれが遠のいた。小さな手が虚しく空を切る。
『……汚らわしい』
触れられる事を嫌った男が、足を引いたのだ。それでも華はもう片方の手を使い、体ごと男ににじり寄る。華とて必死だった。
「お願い…っ、助け…て!あ…足が、足が痛いのっ!!」
痛くて死んでしまう。痛みで死んでしまう。
そうなる前に、助けて欲しかった。この男が何者で、自分をどんなふうに見ているかなど、どうでもいい。
誰でもいいから、この苦痛から解き放って。
ひぃひぃ泣きながら、必死で懇願した。涙と汗でぐちゃぐちゃになった顔で、何度も男の足に手を伸ばした。
少女が白い床をのたうちまわりながら泣き叫ぶ姿は、彼等の眼にはどのように映ったのだろうか。一人でも華を不憫だと思う者がいたのなら、華は救われるはずだった。
しかし、現実がもたらしたのは慈悲ではなく、非情。華の声は誰の耳にも届くことはなく、誰ひとりとして華に救いの手を差し伸べる事はなかった。
『足か』
かろうじて男だけは華の状態に気がついたが、別段、慌てる風でもない。それよりも耳障りな泣き声に、不快感をあらわにして目を眇めた。
『…何と言っているのだ』
『も…、申し訳ございません。言語の変換魔法が利いていないようで…、その』
『もう良い』
うろたえる声に短い嘆息が重なり、言葉少なく制す。『とんでもない物を召しおって…』忌々しげに吐き捨てた低音は、華の懇願をばっさりと断ち切った。
『へ、陛下。この者の処遇は』
『どこぞにでも捨ておけ、と言いたいところだが、この姿だ。おいそれと誰かに見られてはまずい。ひと目につかぬ場所に隔離しておけ。今後の事は私が何とかしよう。お前の処遇は追って通達する。最後の仕事だ。この泣き声を止めておけ』
『な……っ!陛下っ、お待ち下さい!陛下っ!!』
☆★☆
あの日を思い出すと、足がじくり…と痛む。
―――アルタイヌ国に召喚されて、もうすぐ4年の年月が経とうとしていた。
華はいつものように窓際に寄せた椅子に腰かけ、桟に頬杖をつきながら、ぼんやりと外を眺めていた。
アルタイヌの夜は深い。
日没と共に空と海が混じり合い、闇に溶ける。本来ふたつの世界を成しているものがひとつに繋がると、遠くからオゥオゥ…と風が吹く。
これは「声」だ。これほどはっきりと聞こえるのに、なぜ誰も不審に思わないのだろう。
今宵も「ヨーマ」が泣いている。
(泣かないで。もうすぐ歌ってあげるよ)
明かりのない部屋は、闇に包まれていた。降り注ぐ青白い光が、真っ青のベールに身を包んだ華を照らす。ノックも無く入ってきた侍女が、窓際に浮かぶ姿に「ひ…っ」と息を飲んだ。
ランタンを片手に無言で入室し、夕食の食器を下げて慌てて部屋を出て行く。薄気味悪いものに遭遇したような、慌てた様子から、おそらく雇われたばかりの女なのだろう。手つかずの食事をみても、華を気遣う言葉は無かった。
この国の扱いが、そのまま彼女達の態度にも反映された結果だった。
長兄である皇太子が王位継承権を放棄し、第二王子であるサイラスが王位を継いだのは、5年前。生誕25年目に合わせた戴冠式は、歴史に残る壮麗さを誇ったという。
建国王の再来と謳われるその美貌が式に色を添え、国民を沸かせた。
何もかもが違う世界。
千年を一年とし、季節は春と冬しかない。空に昇る月は赤く、空に浮かんだ土地からは清涼の泉が湧き、大地を潤す。獣人と呼ばれる種族、魔道士と呼ばれる者達、地の果てに行けば竜にも会える。
華付きの衛兵は体長3メートル近い狼の頭を持った寡黙な大男だ。
そして、数多ある不可思議な現実の中で、一番謎めているのが、『彼』。
『よぉ、ハナ。遅くなったな』
突如、響いた声。空間が揺れて、歪みの狭間から一匹の獣が姿を現した。それはあの男と同じ色を纏った銀白の豹。背中に4舞の比翼を持ち、体長は獅子ほどある。双眸は深く透き通った紫。
この国の聖獣であり、華の恩人だ。
「クローチ」
侍女には見向きもしなかった華が、ハスキーな声に振り返った。ふわりと口許を綻ばせ、被っていたレースを脱ぎ棄てる。椅子から立ち上がると、白く太い首筋にぎゅっとしがみついた。
「いらっしゃい!」
『おっ、今日は熱烈だなぁ。……はは〜ん、どうせまた寂しくなってたんだろ?』
「そうだよ、いけない?」
『いけなくはないけどよ、お前はまだ喋れないフリしてんのか?』
「別に喋らなくても、不自由してない。それに、この国の人とは話したくないの」
首筋の滑らかな毛並みに顔を埋めながら、ぷっと頬を膨らませて愚痴る。そんな華にクローチが『やれやれ…』と嘆息した。
『相変わらず、頑固なことで』
「良いの、それで。私にはクローチがいてくれれば、それでいい」
クローチだけが、拠り所なのだ。
還る術もなくこの塔へ幽閉され見放された華にとって、クローチだけが唯一。
『ハナ……』
クローチは頑なな姿勢を見せる華に、ふっと視線を弛めた。
アルタイヌ国で華の名を知る者は、彼だけだ。こうして交わす言葉も、実際は全て心で語り、直接脳に響かせている。
ドアの外に立つ衛兵ですら、華の声を聞いた事は無い。
だが、それで良いと華は思っている。
関わりをもたなければ、これ以上傷つくことはない。
華は言語が理解できないわけでも、話せないわけでもなかった。召喚された時から、この国の言葉は理解していた。ただ、当時はまだ話せなかっただけだ。
4年という年月の間で、華は日常会話程度の語学力を身につている。だが、それを知る者はいない。
(いいんだもん…)
陰口なら、気のすむまで言えばいい。
国王陛下の正妃として召喚されたはずだったが、扱いは限りなくぞんざいだった。
城の最北、小さな塔の最上階が華の住処。窓の向こうにあるのは海と空だけで、12畳ほどの部屋は殺風景で、床には単調な模様の絨毯が一枚と、一人用のベッド、一本足の丸テーブルセットと僅かな衣装が入った収納が備えられている、およそ正妃が住まうには似つかわしくない場所。専属の侍女もなく、毎日空を見上げて一日を過ごす。
なぜ、これほどまで無情の扱いを受けるのか。
全ては、華が忌むべき姿をした少女だったからだ。