第一章:第弐話
首にしがみついたまま押し黙る華を、クローチが前足で優しく抱擁する。
『足、治してやれなくてゴメンな』
「……ううん、クローチが謝ることないよ」
顔を上げた華の比較的大きな目は角度によって紫にも見える。「平気だから」そう呟いて、やりきれなさに目を細めるクローチを、微笑むことで慰めた。
4年前に負った傷は、華から走る楽しみを奪った。歩くには差し支えないが、距離が長くなると壊れた膝が悲鳴を上げる。華が一日座って過ごすのは、そのせいだ。
だが、痛むのは足だけではない。背中を中心に、華には無数の傷跡がある。召喚に失敗し、失脚を余儀なくされた魔道士が、地下牢に投獄された華に怒りの矛先を向けたからだ。
痛みと発熱で朦朧とする華を、持参した鞭で幾度も打った。
『なぜお前が』
『私の栄華を返せっ』
『ふざけるな!お前のせいだっ!!死んで償えっ!』
身に覚えのない罵倒よりも、皮膚を裂く衝撃が辛かった。動かない足を放り出して二の腕で頭を庇いながら、鞭の雨が止むのをひたすら待った。痛いとも、止めてとも、許してとも叫んだが、やはり華の言葉はひとつも届かなかった。
ようやくそれが止んだ時、全身は燃えるように熱く、感じるのは痛みなのかも分からなくなっていた。裂かれた場所から流れる血と、皮膚の下からのぞく肉の赤は、虚ろな目には鮮やかすぎた。
死ぬんだ……。
さっきはあれほど抗った「死」を、今はすんなりと受け入れることができた。
何も分からないまま死んでいくことに、悔しさも歯がゆさもない。ただ、この苦痛から解放される喜びと安堵に、心は安らぎを感じていた。
15年で終わる人生に、虚しさだけを覚えて目を閉じた。
クローチが現れたのは、血流の流れを徐々に遠くに感じ始めた時だった。
『死ぬな』
頬に触れる温もりに、沈みかけた意識が掬いあげられる。だがそれも一時で、また闇の触手に魂を絡め取られた。
『死ぬな、ハナ』
優しい声だった。
華の名前を呼び「死ぬな」と呼びかけられて、閉じた瞼から涙が溢れた。死の間際で与えられた優しさは、神様がくれた一粒の慈悲なのか。だとすれば、やはり自分はここで終わるんだと思った。
こめかみを伝い、地面に沁みる涙を生温かいもので拭われても、それが現実だとは思えなかった。それほど起きた現実は過酷で、15歳の華が受け止めるには、辛いものだった。
『お前を助けたいんだ』
闇と光の狭間をたゆたう意識に、クローチが呼びかける。皮膚に触れる温もりが、繰り返し華を励ました。
戻って来い。
彼は、はっきりとそう言った。
「あの時、クローチが助けてくれなかったら、私は死んでた。……本当はね、あのまま死んじゃっても良かったの。でも」
『馬鹿野郎!死んでも良いなんて、絶対言うなっ』
「うん、ごめんね。……良かったんだけど、でもそうしたらクローチとはこうして会えなかったんだよね。私が今、生きているのは全部クローチのおかげなんだもん」
この美しく優しい聖獣が華の傍に居るのは、あの日交わした『誓約』があるからだと分かっていても、もう一度生きることを選んだのは華自身だ。
一度は死んでも良いと、闇を受け入れかけた華を、彼の声が救った。自らの魂の半分を華に分け与えることで、魂を引き戻したのだ。
永遠という時間を生きる聖獣の魂を持ったことで、華の時間も緩やかになった。元の世界でならとうに二十歳は過ぎているはずの体は、召喚当時のままだ。150センチの小さな体躯を、同じほど伸びた黒髪が後ろ姿を覆う。それが今の華だ。
『俺の命を半分やる。その代わり、ハナはある者の為に歌ってくれ』
クローチは言った。
『この国には封印されてた魔獣がいる。そいつを眠りから目覚めさせないよう、子守唄を歌ってほしい』
それが命を分け与えるほど重要なことなのか。なぜ華を選ぶ。
「ど…して、私…が?」
遠くなる意識の中で聞いた答えはなんだったろう。次に目を覚ました時、華はこの部屋に居た。
今があるのは、彼と誓約を結んだからだ。そして、二度と元の世界に戻ることはないのだろう。
聖獣の魂を持った代償は、永遠。誓約を果たすまでの恩賞は、不死。
例え戻れたとしても、そこは華の知る世界では無い。時間軸の違いに孤独を感じ、誰もいない場所に疎外感を覚えて嘆くのだ。しかし、此処に居ればクローチがいる。この世界で孤独を痛感した華は、ひとりになるのが怖かった。
もう、あんな寂しい思いはしたくない。
華は子守唄を歌い続ける限り、この世界で生き続けるしかなかった。
(どうせ、還れる術もないし……)
あの召喚魔法はいわば片道切符。厳選を重ねて選んだ少女は、国を上げて珍重され、地位と名誉と惜しみない愛を受ける。孤独を感じないくらい王の寵愛を受け、少女は自分の世界への哀愁を抱きつつも、生まれた我が子達に癒され、いつしか心に折り合いをつけて一生を終える。それが召喚された少女の一生だ。
しかし、華の場合はそれとは違う。
ドアの向こうで衛兵の咳き込む声に、ふっと気がそれがた。
「外は寒いの?」
『まぁな、もうすぐ冬だし暖かくはないわな。どうする?やめとくか』
毎晩の日課となっている歌唄いに、クローチが窺いを立てた。一日くらい平気だぞ?と紫色の双眸が問いかける。
「ううん、平気。寒さもそんなに感じないから」
冬になればこの部屋の室温はかろうじて二桁を保てるところまで下がる。支給される薪は何とかひと冬越せる程度の量だ。
常人なら耐えられない環境でも、幸いな事に華はあまり気温の変化に影響を受けない体質となっていた。
それもクローチの魂を受け継いだおかげなのだろう。吐く息が白く染まっても、華の服装は春時期とさほどかわらない。首、手、足の先までしっかりと隠れるドレスに飾りはなく、胸元で切りかえしてあるだけのシンプルなもの。さらに髪と顔を隠す為に、全身をレースで覆う。部屋を訪れる侍女達が見せる好奇混じりの畏怖の視線にうんざりした故のいでたちだ。
暖房の効かない部屋でも顔色ひとつ変えない様子も、城の人間達に不気味さを与える一因なのだが、それは華の知るところではない。
『それじゃ、行くか』
「うん」
頷いて、クローチが前足を折ると、華は比翼の間に体を滑り込ませ、横向きに腰かける。クローチが立ち上がった時には、目の前の空間が割れていた。
人ならざる者だけが通れる異空間を、二人は苦もなく入る。時空の波が渦巻く間を抜ければ、視界には満天の星空が広がった。つい先ほどまで見上げていた月が、今はこんなにも近い。
手を伸ばせば届きそうな、大きな月。アルタイヌで見る月にも、ちゃんと兎の影がある。
(いつか還ってみたいな……)
そんな日は来ないけれど、日本と同じ月が見えるのなら、この空は華のいた世界とも繋がっているのかも知れない。
微かな希望は、いつも寂しい気持ちを優しく撫でてくれる。
頬に当たるキン…と冷えた風は、黒髪を闇にたなびかせた。
目指すは、海を越えた先に在る霊峰。天に轟く山は常に霧に覆われており、誰も山頂を見たことはない。クローチは一気に高度をあげて駆け上ると、中腹にある草原に降り立った。
岩山の霊峰で、そこだけは背丈の短い植物が天然の絨毯を作り出している。クローチの背から慎重に降りた華が足元を確かめながらゆっくりと歩み寄ったのは、腰かけるにはちょうどいい大きさの岩だ。
華の歩みを手伝った後、クローチが足元に蹲る。
オゥオゥ…と鳴く声に静かに目を閉じ、息を吸い込むと、大地の息吹を感じる。
人に侵略されていないこの場所が好きだ。
体を清涼な空気でいっぱいに満たした後、華は静かに歌い出した。
この霊峰に眠る魔獣の為だけに、歌う子守唄。
鈴の音に似た軽やかな高音が、冷涼の風に乗って岩山に響き渡る。青白い光が華を照らすと、草原から月色の光が舞い上がった。
キラキラと輝く光の粒は風に乗って夜の闇に広がる。華の歌声に合わせて踊る。黒髪が風の吹く方向へなびいて広がる様は、幻想的で妖艶。
長い長い歌が静かに最後の言葉を紡ぎ終わると、不思議と風が止み、光は霧散した。月も何事もなく別の場所を照らすのだった。
もうヨーマの嘆きは聞こえない。
ほっと息をついて、足元のクローチを見た華は、
「帰ろう」
と、あどけない笑顔で言葉を発した。