第一章:第十六話

 能面みたいだった表情が微笑に彩られる瞬間を目の当たりにした華は、とても珍しい物を見た気分になった。

(あれ? もしかしてこの人)

 サイラス側の人間ということばかりに気を取られていたせいで気づかなかったが、切れ長の双眸といい通った鼻梁といい、よくよく見れば彼の顔立ちは余裕で美形の部類に入っているじゃないか。神経質そうな雰囲気も見方を変えれば、清廉された印象と言えなくもない。

「華様は随分とこちらがお気に召したご様子とお聞きしております。華様のお心をお慰めしたものとは何なのか私目にも教えていただけませんか?」

 琥珀色の瞳がじっと華を見つめた。知らないうちにユーグにまで名前で呼ばれていることに内心驚きつつも、そのへりくだった物言いはどこか胡散臭い。
 何しろ、彼はサイラスの側近だ。きっとこうして声を掛けてきたのにだって何か思惑があるのかも知れない。迂闊なことを言えばまた誰かしらに被害が及ぶ可能性があると思うと、極力彼等との会話は避けたかったし、もともと談笑するような間柄でもない。だからこそ、ユーグの手のひらを返したような態度が不可解だった。

(だから放っておいてと言っているのに)

 どうして、頼んでもいないのに彼等は関わりを持とうとするのだろう。

「……別に。ただの気分転換です」

 ふい、と視線を逸らせて嘘をつく。ユーグは「それはいいことですね」と納得したような口ぶりで頷いていたが、おそらく信じていないだろう。
 それ以上彼等と話すつもりのない華はそそくさとその場を去った。ロイドが彼等に一礼し、華の後に続く。
 傍に来た気配に思わず手を伸ばし、毛皮で覆われている方の手をとった。大きな手は温かく、それだけで強張っていた心が緩んでいく。

「華様……?」
「お願い、少しだけ手繋いでて」

 小声で訴えると、ロイドは何も言わず華の手を握り返してくれた。伝わる温もりに少しずつ震えも鎮まっていく。
 ただ言葉を交わしただけ。多少の嫌味はあったけれど、手を上げられることも露骨に蔑まれることもなかった。けれど、サイラスと対峙するだけで体はどうしようもなく怒りで震えるのだ。

(あんな人、大っ嫌い)

 結局のところ、彼に対する猛烈な嫌悪感が全身全霊でサイラスを拒絶しているのだろう。
 まだ背中に彼等の視線が纏わりついているみたいで気持ち悪い。けれど、絶対に振り返りたくなんてなかった。あんな人達になんて一瞥すらくれてやりたくない。
 散々、人をコケにしてきたくせに何を思って突然態度を変えてきたのだろう。そんなものに誰が感謝すると思うのか。
 憤慨する気持ちに呼応したのか、ジクリ……と膝の古傷が痛んだ。

「……痛」

 息を止めて走った痛みに耐える。ロイドがハッとこちらを見た。

「膝が痛むのですね」
「……大丈夫。少し気負いすぎただけだから、すぐに治まると……わぁっ!?」

 言い終わる前にひょい、とロイドに抱き上げられた。軽々と横抱きで抱えられ、近くなったロイドとの距離に鼓動が跳ねた。

(ち、近い!)

「な、なななに!?」
「無理は禁物です。雛への餌は明日でも大丈夫ですので、今日はこのままお部屋までお送りさせていただきます」

 提案ではなく決定事項に、両手を突っぱねて暴れていた華は「えぇっ!」と思いきり不満の声を上げた。

「そんな! 私なら本当に大丈夫だから、ね!? 見に行こうよ」
「いけません。悪化したらどうするのです」
「別に悪化したって……ッ」
「華様」

 平気だ。そう言おうとした言葉は、喉の途中で止まった。華を見るロイドの眼差しがその先を言わせなかったからだ。

「なりません。その先は決しておっしゃらないでください」
「ロイド……」
「華様はもっとご自身を労わるべきです」

 視線が孕む悲痛さが胸を突いた。怪我を患っている華よりも痛々しい表情に、それ以上の我が儘など言えなかった。
 彼がどれだけ華の体調に気を配ってくれているかは、十分分かっているつもりだ。彼がくれた杖は華の手によく馴染んでいる。「寒くはないか」と言っては可愛らしい花柄のケープを渡され、「痛みを和らげる効果があるから」と言って茶葉や香をくれる。大切にされていることが身に染みて感じているからこそ、これ以上ロイドに心配をかけさせてはいけない。
 大人しくなった華に、ロイドは優しい声で「お部屋にもどりましょう」と告げた。

「……うん」

 雛の成長を見られないのは心残りだが、彼が大丈夫だというのならそうなのだろう。黙ってロイドの胸に寄りかかると、華を抱いている腕に今よりももう少しだけ力が込められた。
 どうしてここはこんなにも居心地がいいのだろう。
 彼の腕には侍女が持たせてくれたお菓子の籠がぷらぷらと揺れている。

「せっかく用意してもらったのに、悪いことしちゃったわね」
「仕方ありません。お部屋に戻られてから召し上がってください」
「なら、今日こそロイドも一緒に食べてくれる?」

 東屋でお茶を飲む時も、ロイドは頑なに同席を拒んでばかりだ。

「ロイドの言うことを聞くから、今日は私のお願いも聞いて?」

 獣の顔を間近で見つめれば、ロイドはうっと言葉に詰まった。

「……華様。何度も申し上げておりますが私は一介の衛兵でございます。本来ならばこうしてお言葉を交わすことすらもできない立場です。そんな自分が華様と同席するなど許されることではありません」
「そんなの関係ないわ。第一、そんなことを誰が罰するというの?」

 これがサイラスなら無礼だと騒ぎ立てるのだろうが、華は根っからの庶民だ。自分が高貴な立場に立ったという自覚は未だ持って備わっていない。
 実際、侍女達とは時々同じテーブルでお茶をすることもある。話してみれば彼女達は華のいた世界の女の子と達と何も変わらなかった。恋の話が好きで、甘い物やお洒落に関心のある、年頃のどこにでもいる普通の女の子だった。
 食い下がる華にますます困惑していくロイドを見ていると、とても彼を身近に感じることができる。困らせていることが嬉しかった。獣の顔に表情なんてあるわけないと思っていたけれど、それは華の思い込みだった。その実、彼はこんなにも表情豊かだ。寡黙な人であることには変わらないが、彼が華の話を無視することは決してないし、どんなことでも真摯な姿勢で受け止めてくれる。彼になら甘えてもいいのだ、と思えた。

「ね? 一度だけでいいから」

 お願い、と駄目押しをされ、それでも沈黙をもって足掻いていたロイドだったが、ややして「……かしこまりました」と折れた。

「やった!」
「は、華様!?」

 嬉しさのあまりロイドの首に抱きつく。ロイドはあたふたとしながらも、華を落とさないようしっかりと抱きしめていた。


 そんな仲睦ましい二人の様子を遠くから見ていたサイラスは、彼等がいなくなってからもしばらくは渋面を解くことができなかった。


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