第一章:第十五話

  なぜあの女に自由を許したのか。
  自分が下す采配に疑念を抱くなどあってはならないことだ。これまで通り、城の塔に幽閉しておけばいいはずの存在だ。女をアルタイヌへ召喚してからおよそ四年。その存在に気を配るなどありえないことだった。
  あれを人だと認識したこともない。何を考え、今日までの日々をどう過ごしてきたかなど知ろうともしなかった。
  生涯幽閉し、存在そのものを記憶から抹消してしまえればいいとすら思っていたくらいだ。
  忌むべき者が……、「華」と呼ばれていた存在が迸った激情を吐き出したあの日まで、サイラスにとって華はただ煩わしいだけの存在だった。
  だが、華の激情はサイラスの心の片隅に小さな棘を残した。ここ何日か続く微かな違和感はやたら気になり、思い出したくもないのに華の悲痛な叫び声ばかりが蘇ってくるのだ。
  だが、それがどうだ。
  サイラスは渋い表情のまま窓の外に目をやった。華は時折、半獣に手を取られながら庭の散歩を楽しんでいる。
  思わず眉を寄せた。

(――近づき過ぎではないか)

 じわじわと燻る違和感は和らいだものの、今度はもっとおかしな感情が胸を渦巻いているではないか。
 どうにもあの二人の距離が目に余って仕方がない。あんなにも密着する必要がどこにある。近衛なら立場をわきまえ華の後ろを歩け。あの女もなぜそれを許している、后である以上、王以外の男の手にむやみやたらと触れるべきではない。ましてや子供のようにはしゃぎ、あのような無防備な笑顔を向けるなど……。まるで恋仲にあるようではないか。
 華があの近衛を慕っていることは件のことで分かっている。半獣の身代わりとなり鞭打ちの刑を受けると啖呵を切ったほどだ。
 何も知らない愚かな女め、か細い体で拷問の激痛に耐えられるとでも思ったか。
(私のことは外道と罵っておきながら、近衛ごときを擁護するというのか)
 自分は王だ、そしてあの女の夫だ。その夫を差し置いて他の男と親しくしていい理由などあるものか。

「どうされました?」
「――何でもない」

 ユーグの訝しげな問いかけに憮然とした声で返すと、仲睦まじい二人から視線をはがした。
 まったくもって面白くなかった。

☆★☆

 すっかり中庭が気に入った華は頻繁にこの場所を訪れるようになっていた。
 待遇改善には近衛兵の増員も含まれており、ロイドが四六時中華の身辺を守ることもなくなった。が、華は決まってロイドを伴って行く。彼の手が持つ籠には侍女が用意してくれた焼き菓子がたくさん詰め込まれている。東屋で休憩がてらお茶をするのが最近の華の楽しみなのだ。
 ロイドを伴うには、肩書きだけの后という他にも幾つか理由があった。ひとつは華の足だ。杖のおかげで幾分か楽にはなったが、それでも長時間の歩行は難しい。行きはいいとしても帰りはたいてい足が痺れてしまう。そんな時、ロイドは必ず華を抱え上げる。

「華様のお体をお守りするのも私の務めです」

 生まれてこのかたお姫様抱っこなどされたことのない華は、恥ずかしいやら意外と高さのある体勢が恐ろしいやらで、妙なときめきに振り回されどおしなのだ。
 とはいえ、いくらロイドが半獣だろうと彼も異性。そして見た目は幼いが華も歴とした女だ。もふもふの被毛に覆われていようと伝わる筋肉質な体躯や温もりが気にならないほど子供でもない。これで意識するなという方が無理な話だ。
 でも、戸惑いを覚えているのは華だけで、ロイドは真摯なほど誠実な姿勢で華に仕えてくれる。だから、任務と言い切られた言葉にほんの少しだけ傷ついたのは秘密だ。

(ロイドは臣下として私に尽くしてくれているだけなんだもの)

 彼のことが好きでも、ロイドから与えられる忠誠を好意とはき違えてはいけない。
 それでも、共に過ごす時間は楽しかったし、華の知らないことを語る話を聞くのが好きだった。とりわけ自然界に関する知識は豊富で、博学だった。
 ロイドは見た目こそ恐ろしいが、彼の傍にはおのずと動物が集まってくる。それはきっと彼の優しい気性を動物たちも感じとっているからだろう。
 そんな彼と華は今、一羽の鳥を世話している。最奥の東屋の傍に在る茂みに雛鳥が落ちていたのを華が見つけ、ロイドの知識を借りてひとり立ちするまで見守ることにしたのだ。
 頻繁に中庭に通っている最たる理由が、この雛鳥の成長を見守る為だった。
 そんなこともあり、中庭は華の新たな憩いの場になりつつあった。が、そんなある日。
 珍客が参上した。
 入り口近くの東屋に悠々と腰かけている煩わしい存在を目にした途端、華は一瞬で表情を曇らせた。サイラスだ。

(王家専属なのだから居ても不思議はないけれど)

 嫌な男と鉢合わせになってしまった。けれど、ここで引き返すのは癪に障る。かといって、あの男の近くには行きたくない。
 仕方なく、華はいつもとは違う道から東屋へ行くことにした。少し遠回りになるけれどそれも仕方がない。
 どうせ、サイラスと会うことなど滅多にあることではないのだ。
 そう高を括っていたのだが、次の時もその次の時もサイラスと鉢合わせになった。しかも、何の嫌味かサイラスは前回華が散策した道にある東屋で寛いでいるじゃないか。
 偶然も三度続けばさすがに必然だと気づく。
 恨めしげに睨みつければ、お決まりの冷笑を寄越してきた。華の負けん気に火がついた。

(いいわよ、言ってやろうじゃない)

 売られた喧嘩に息巻いて、華はサイラスがいる方へと歩き出した。
 我が物顔で東屋で寛ぐサイラスの傍らには宰相ユーグもいる。
 ツンと顎を上げ、すまし顔で二人の前を通り過ぎる。当然、礼を払うことも視線を合わすこともしない。ヌルルの杖を操りながら目一杯毅然とした。

「頭が高い」

 この時を待っていたと言わんばかりに、サイラスの声がした。

(――気に入らないのなら無視すればいいのに)

 どうやらこの男、華にひと言物申さずにはいられない質らしい。
 あくまでも自分の優位を華に知らしめたがるお決まりの台詞にはいい加減うんざりした。辟易顔の華に気づいていないのか、傲慢の塊みたいな男はなおも言葉を続けた。

「誰のおかげで自由を得たと心得ている。お前は感謝も知らぬのか」

 嫌々サイラスを見遣れば、「少しはひとらしい暮らしになっただろう」と言われた。

「……そうね、あの白い絨毯はとても気に入っているわ」

 自分も何を真面目に答えているのだろうと思いつつも、もっぱらそれを気に入っているのはクローチだということは伏せておく。すると、サイラスはムッと眉間に皺を寄せた。訝しげな表情に首を傾げれば、

「お気に召してくださり光栄です」

 横からユーグが割って入ってきた。どうやら何が華の部屋に運ばれたのかまでは把握していなかったらしい。指示を出したのはサイラスでも、あれらを見繕ったのはユーグのようだ。
(馬鹿馬鹿しい)
 会話をするのも面倒くさくなってくる。だが、落胆はない。サイラスが華の為に時間を割いて何かをするなどありえないからだ。

「そうだったの。ありがとう」

 だから、華は品物を選んだユーグに礼を告げた。不満げなサイラスの横でユーグは微笑んだ。

(あ、笑った)
 


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