第二章:第四話
(霊峰の温泉と同じだわ……)
なみなみと張られた湯に肩まで浸かり、馴染んだ琥珀色のそれを手で掬い上げた。
ここにも霊峰と同じ性質の源泉があるのだろうか。――まさか、霊峰は海を越えた遥か向こうだ。
(でも、気持ちいい)
まさか、こんな場所に湯治の湯があるとは思わなかった。けれど、あの傲慢な男ならどうにかして霊峰の温泉を王宮にも引かせそうな気もする。
(それにしても変なの。なんで急にこんなことをしたのかしら)
夕立でずぶ濡れになった華を、あの男は屋根のある場所まで抱えて(・・・)運んだ。あれは助けてくれたと解釈してもいいのだろうか。
(ないない、ありえないわ)
即座に否定するも、頭の隅から“だとしたらこの状況をどう説明する?”と問う声があった。
『忌むべき子』と呼ばれる華を自分の居住区に入れただけでなく、湯までくれた。侍女をつけることを嫌がれば、承知してくれた。あの、華の言葉に耳を傾けることのなかった男が、だ。到底信じられないけれど、全部華を気遣った行動と呼べなくはないだろうか?
(……だとしたら、なんで?)
ついこの間まで顔を見るのも嫌がっていたくせに。
何があの男の興味を引いたのか。どの場面でそんなことになったのか。――でも、どうせ考えたって分かりっこない。嫌いな男のことなんて考えるだけ時間の無駄だ。
どうせ、華にはこれっぽっちもありがたくないことを考えているに決まっている。
そんな男に言われるがまま湯を浴びている自分も大概図太くなったと思う。心底嫌いな相手だからこそ、停滞を保つ気も失せたのかも知れない。
どう思われようと、これ以上華への印象が最悪になることはないし、なったところで痛くもかゆくもないからだ。
けれど、それは相手がサイラスに限ったこと。
ここにはクローチもロイドもいない。ここに来るまでの間に向けられた視線を思い出すと改めて自分は歓迎されない者だと思い知らされる。
――私は『忌むべき子』なんだもの。
敵陣の真っただ中に連れて来られた華にできることなんて、一刻も早く逃げ出すことだけ。
その為にも、早く足の痛みを鎮めなくちゃ。
霊峰の湯があって本当に良かった。
ぶくぶくと鼻の下まで湯に沈めながら、華は静かに目を閉じた。
ようやく痺れるような脚の疼痛が引いたのを見張ら下衣、湯から上がった。すると、同じタイミングで間仕切りの向こうから「失礼します」と扉を開けて女の声が入ってきた。
突然の来訪者に体が竦んだ。
慌てて湯の中へ逃げこんだが、声の主は間仕切りからこちらには来る様子はなかった。
「お着替えをお持ちしました」
落ち着いた声だけでは女の姿は想像できない。
(あれだけ人は寄越さないでって言ったのに!)
何の為に見せたくもない肌を晒したと思ってるんだ。女は侍女のようにも感じられるが、本当にそうだという確証もない。
ふと疑惑がよぎった。
もしかしたら、ついに華を始末する手段が見つかったのかも知れない。サイラスの理解できない行動もすべてそのためだとしたら辻褄が合う。あれらが彼の善意だと言われるよりはよほど納得できた。
(どうしようっ、逃げ場なんてどこにもないのに!)
殺せばいいと、啖呵を切ったもののこんなところで無念の死を遂げるなんて絶対に嫌だ。
(クローチ、クローチ! どうしようっ、どうしたらいいの!?
「どうかなさいましたか?」
いつまで経っても華が答えないことに、間仕切りの向こうの気配が動いた。
「こ、こっちに来ないで!」
咄嗟に悲鳴が口を突いた。彼女が華を殺す者だと思うと、おのずと恐怖で体が震えてくる。全身に警戒心を漲らせ、間仕切りを凝視した。
「――私は外に出ておりますので、ご準備が整いましたらお呼びください」
ややして女が扉から出て行った。ホッとして、そのまま湯に沈む。声がしたのはその時だった。
――華、大丈夫か?――
「クローチ!?」
頭の中に聞こえた声にハッと顔を上げた。
――悪い。すぐに返事できなくて。お前、何で王の居住区になんているんだ?――
「分かんないよ! 突然サイラスに連れて来られて……、クローチ迎えに来て!」
――……俺はそこには行けないんだ。どうする、ロイドを呼ぶか?――
クローチも今日の衛兵が華に友好的でないことを感じているのだろう。彼の申し出に心はぐらりと動いたが、しばらく考えてから力なく首を横に振った。
「……ううん、いい。ロイドも今は大変な時期だもん。大丈夫、何とか一人で帰るわ」
――そうか。俺も行ける所まで行くから、それまでの辛抱だ――
思念が消えて、またひとりになった。
けれど、思いがけなくクローチの声を聞けたことでほんの少しだけ冷静になれた。
(――大丈夫、服を着てここを出ていく。それだけよ)
突然、見知らぬ人が入ってきたせいでパニックになっただけだ。冷静になった頭がやはり彼女は侍女だと結論づけていた。そもそもはじめに「着替えを持ってきた」と言ったじゃないか。それを華を殺す為の処刑者だなんて、どれだけ自分はこの国のことが嫌いなんだろう。
ひどい対応をしてしまったことに、今さらながら胸が痛んだ。
(嫌な気持ちにさせちゃったよね……)
おそるおそる間仕切りの端から顔をのぞかせるが、やはり女は部屋から出て行っていない。そっと用意されていたタオルを手に取り水気を拭きとると、着替えに手を伸ばした。
それは華がいつも着ている露出の少ないワンピースドレスだった。
いそいそと袖に服を通してから、近くにあった椅子に腰掛け、髪の水分を取った。いつもならクローチの背に乗っている間で乾いてしまうのだが。この世界にはドライヤーもないので、ひたすらタオルで水気を吸い取るしかなかった。
それでもなんとか身支度を整えると、ゆっくりと扉を押し開いた。顔だけ出して、辺りの様子を窺う。
(人はいないみたいね……)
杖が無いのは辛いが、中庭までの辛抱だ。
そう思って足を踏み出した直後。
「どこへ行くつもりだ」
剣呑とした声に「ひ……っ」と飛び上った。反射的に後ろを振り返れば、立っていたのはよもやのサイラス。
「……何してるの」
思わず口を突いて出た本音に、サイラスはみるみる眉間に皺を作り不機嫌さを露わにした。後ろには中年の女が控えている。
きっと彼女が着替えを持ってきた侍女だろう。
「杖もなく、その脚でどこへ行くつもりだ」
「……」
「黙秘か。……それでも、かまわん。来い」
言うや否や、サイラスの腕にまたも囚われた。腰を攫われ、一瞬で担ぎ上げられる。
(またこの体勢――ッ!!)
「……ッ、放してよ! いい加減、帰して!」
「助けてやったんだ。茶ぐらい付き合え」
「なんであなたなんかと――っ!!」
背中を叩きながらの抗議もこれで二度目だ。けれど、サイラスの歩みは淀むことなく真っ直ぐ目的地へと向かっている。通されたのは、人の背丈ほどある格子窓がいつくもある淡い橙色の部屋だった。
サイラスは窓際に置かれたひとり掛け用の安息椅子に華を下ろした。