第二章:第伍話
すぐに立ち上がろうとしたが、逃亡は想定済みだと言わんばかりに体を使って行く手を遮られた。
「――ッ」
肘置きに二の腕をついたサイラスの影が華をすっぽりと呑み込んだ。
至近から伝わってくる威圧感に体が竦む。けれど、この男にだけは絶対に屈したくないという意地だけで、真上から見下ろしてくる紺碧の双眸を睨みつけた。
「退いてよ!」
「逃げないと約束するのなら退いてやる」
「ふ……ふざけないで! あなた馬鹿なんじゃないの!?」
(約束ですって!?)
耳を疑いたくなるような単語に、つい暴言が口をついて出た。今まで誰よりも華を煙たがっていた男が口にするには、あまりにも不釣り合いな言葉。
それは、互いの存在が対等になってはじめて効力のある言葉だ。
散々、華を蔑ろにしてきたくせに図々しいにもほどがある。
投げつけた罵倒は彼の矜持を傷つけるには十分だったはずだ。
気の短い男のことだ。殴りたいのならすればいい。
そうしてとっとと華への興味を捨てて欲しかった。サイラスが何を思って華をここへ連れてきたかは知らないが、気まぐれな好奇心ほど迷惑なものはない。
やってくる痛みに備えてぐっと奥歯に力を込めた。すると、サイラスは美貌にふっと薄笑いを浮かべた。
「……随分と毛嫌いされたものだ」
ひとりごとなのか、それとも華への皮肉なのか。
どちらにしろ被害者面した物言いが神経を逆なでた。
(全部、自分がしてきたことじゃない――ッ!!)
そこへ扉をノックする音が聞こえた。サイラスの号令のあと、先ほどの侍女がカートを押して入ってきた。用意されたティーセットがカタカタと振動に震えている。
この男は本気で『忌むべき者』とお茶を飲むつもりでいるのか。
目を疑いたくなる光景に呆気に取られていると、一瞬侍女と目が合った。顔を伏せたのはもはや条件反射だった。そんな華をサイラスがじっと見ていた。
「こちらでよろしいですか」
「……あぁ」
カップにお茶が注がれると、嗅いだことのない香りが立った。準備を終え、侍女の足音は扉の向こうへ消えた。また二人きりになる。ゆるゆると顔を上げれば、すぐ傍にあるひとつ脚の丸テーブルには二人分のお茶が用意されていた。
金で縁取られた白磁色のカップをキャンパスに淡い色彩で描かれた花が綺麗だった。二枚組のソーサとカップの清楚な姿はまるで一輪の花を模しているようだ。
なんてこの場に相応しくない可憐な茶器だ。
だが、ほんの少しだけとげとげしかった気持ちが和んだ。
「逃げるなよ」
そう言い置いて、そっと体を起こす仕草は、捕まえた野良猫が逃げ出さないかと気が気ではない子供を見ているみたいだった。
この脚でいるかぎり、俊敏な動きなどできやしないのに。
内心呆れ気味でそんな彼を眺めていた。
サイラスは手ずから取ったカップのひとつを華へと差し出す。
(まさか飲めと言っているの?)
敵陣の大将が手渡す者を? 自分はそんなにもおめでたく見えるのだろうか。
これが善意なのか、これとも企みなのか。華には推し量る術がない。
あるのはサイラスへの強烈な嫌悪と警戒心だけ。だからこそ、彼の一挙一動が華を馬鹿にしているみたいに思えてくる。けれど、嫌いな男の考えていることなんて知りたくもないから、ぷいっと顔を背けてやった。
もうひと言だって話したくない。
全身からサイラスへの拒絶を醸し出し、両手で体を抱きしめてはこみ上げる震えを必死で押し殺した。
(――早く帰りたい)
ロイドとクローチが守ってくれる北塔の部屋に戻って、こんな嫌な現実から逃げ出したい。
こんなことになるのなら、大人しく部屋に籠っていればよかった。
「案ぜずとも毒など持っていない」
これでもかと言うほど華を蔑ろにしてきた男の吐く言葉などに、どれほどの真実があるだろう。
この状況で呑気にお茶を飲めるサイラスの方がどうかしている。それとも、ここが自陣であるがゆえの余裕とでもいうのか。
取り付く島のない様子に、サイラスは嘆息を零しながら持っていたカップをテーブルへ戻すと、おもむろにその手を華の頬に宛てた。
刹那、おびただしい嫌悪が全身を駆け抜けた。震え上がった時には、その手を叩き落していた。
「――触らないで!」
全身を総毛立てながら威嚇する。
「少しは温まったようだな」
おそざしいものを見る視線に臆することなく、サイラスは見当違いの言葉を返した。ホッとした声音に、いよいよ華は胡乱な顔をせざるを得なかった。
――おかしい、いつものサイラスじゃない。
このわずかな時間で何度もあった違和感がまた華の心によし寄せてきた。
無礼者と華を蔑み、躊躇なく華を平手打っていた男が、――華を気遣っている。雨に打たれた体がどうなろうと気にする男ではなかったはずだ。
「あの湯は霊峰にのみ存在する治癒の湯だ。一番近くの湯殿に入ったのだが、偶然にもお前にとっては良かったのだな」
何を言い出すの?
「――傷は痛むか?」
どうしてそんなことを聞くの?
「治癒魔法に長けた魔導士を呼んである。彼ならその脚も治せるだろ…」
「――何言ってるのよ」
サイラスの声を遮って華が唸った。
疑心に満ちた目でサイラスを見た。
豹変したサイラスの行動が華を混乱させる。労りの言葉が華を苛立たせていた。
どうして突然そんなことを言い出すのか。
「魔導士なんて顔も見たくない。呼んだら許さないから」
「だがな」
誰がこの体に鞭打ったか知っていて、それを言うのか?
「華」
その瞬間、猛烈な憤怒が溢れた。
「気安く呼ばないで!!」
怒りに任せてテーブルのカップをサイラスに投げつけた。白い衣装にパッと琥珀色が飛び散る。毛足の長い絨毯の上に落ちたカップが転がった。
紺碧色の目にサッと朱色の激情が映った。
(そうよ、怒りないさいよ)
人が変わったような素振りまでして何を企んでいる。そんなものを真に受けるとでも思っているのか。それとも、これまでのことは茶の一杯で水に流せることだとでも思っているのか!?
ふざけるな、冗談じゃないわ。
華にとってサイラスは諸悪の根源だ。その場だけの善人を演じたところで、所詮はメッキの善意。この男がどれだけ非道で外道であるかなど嫌というほど味わわされた。
そんな男に突然わけも分からず攫われて、冷静になれるわけがないだろう。
「殴れば?」
「――もう殴らないと決めた」
怒りを堪えている声音が華を苛立たせる。
我慢をするくらいなら、華にぶつければいい。そうして、いつものように華を拒絶してくれればいいのだ。
こんなにも構わないでと叫んでいるのに、なぜ放っておいてくれないのか。
元の世界に戻れないのなら、せめて静かに暮らさせて。面倒事などまっぴらだ。
サイラスの声など聞いていたくない。
華は両手で覆い呻いた。
「……もう帰りたい、ここから出して」
「私はお前と話さなければいけない」
「……」
サイラスに話す言葉などない。
黙っていると、ややして気配が動いた。
今度こそ殴られるのだ、と身を強張らせば静かな口調で「……杖だ」と言われた。憤りは感じられなかった。ゆるゆると手の中から顔を上げれば、中庭に落としてきた杖を差し出された。
「今日は……帰そう。だが諦めたわけではない」
必ず次の場を設けると暗に含んだ言葉の強さに、悪寒がした。
直感が騒めいている、サイラスは本気だと。
「そんなの受けないわ」
「ならば、受けるまで催促するまでだ」
よどみない声が断言した。
「話すことなんてない!」
「私はある。お前の体にある傷のことも、脚のこともだ」
あぁ、そうか。傷を見たせいなのか。
おそらくこうだ。
華を雨から庇った理由は知らない。だが、外道であっても人の子、サイラスは華の傷と脚を見て良心が痛んだのだろう。けれど、彼が抱いた感情は一過性のもの。ほんの少しだけ「可哀相だ」と心が揺れたに過ぎない。
そもそも理由を知ったところでどうなるんだ。
今頃手のひらを返されたところで華の過去が変わることはない。受けた仕打ちも、皮膚を裂いた傷も心に刻まれた痛みも消えない。
ただ、サイラスの好奇心が満たされるだけだ。
(私にどうしろって言うのよ……ッ)
安易な気持ちで手を差し伸べようとしている男の興に付き合えと、そう言うのか。
華には彼の声に耳を貸さなければいけない理由はない。むろん、心を開く筋合いもだ。
サイラスの行動は、趣向を変えた嫌がらせにしか思えなかった。
華を無言で杖を受け取り、ゆっくりと立ち上がった。
「送ろう」
「触らないでと言ったでしょ。……一人で帰れる」
「ここから北塔までどれだけあると思っている。また脚が痛むだけだ」
「それでも!! それでも、あなたからの施しなんていらないの」
キッと睨めば、美貌が屈辱に歪んだ。
「ならば、ユーグに送らせる。――私よりはましなのだろう?」
「だからひとりでいいってば!」
「――ッ、いいから聞き入れろ! 嫌ならまた抱えて運ぶぞ」
――華、外だ――
声がしたのはその時だった。
サッと視界を白いものが横切った。華は咄嗟に窓へと手を伸ばす。すると、突如閉まっていたはずの窓が全開になり、華を吸い込むように窓の外へと投げ出した。
「華!」
サイラスが窓べりに駆け寄った時、落ちて行ったはずの華の姿は忽然と消えていた。