第一章:第参話

 塔に戻ると、華はスカートの裾を袋代わりにして包んでいたものを、ガラスの小瓶に移した。

『お人好し』

 その様子に、クローチがぼそりと呟く。
 帰り際、霊峰の麓近くまで降りて摘んだナルの実。煎じて飲めば咳止めになるのだ。

「いいの」

 言ってドアを押し開け、隅にそっと置いた。こうしておけば、あの人は持っていくだろう。
 一切の無関心を装っているが、華は冷酷ではない。忌むべき存在であろうと、他人を思いやる心はあるし、情だってある。特に、華付きの衛兵とは此処で暮らすようになってからの付き合いだ。言葉を交わしたことはなくとも、4年も経てばそれなりに情が湧く。
 彼が人間であったら、また違ったかもしれない。だが、半獣という存在は華にとっても珍しく、野生に近い分だけ人間よりも純粋であるような気がしていた。
 なにより、彼は華を煙たがっているわけではない。確証はないが、なぜかそう感じてならなかった。

『華、誰か来るぞ』

 クローチの声に、はっと我に返る。この塔の周辺には彼が張った結界がある。人が結界内に入れば、どこに居ようとクローチが察知する。こんな場所に来る物好きは滅多といないが、空間を抜けて霊峰へ向かわなければならない華にとって、策を講じて越した事は無い。
 華は急いで椅子にかけてあるベールを被り、クローチは空間の狭間に身を潜めた。
 空間の歪みが鎮まるのとほぼ同時に、ドアが大きく開かれる。ノックもなく入ってくるのは、この国の礼儀なのだろうか。その不作法さに内心呆れつつも、華はいつも通り椅子に座り外を見ていた風を装った。

「久しいな」

 月の光を浴びた燃えるような銀髪を揺らし、暗闇の中に現れた男。
 アルタイヌ国王 サイラス。事実上、華の夫だ。
 彼の姿を見るのはいつ以来だろう。声をかけられたのは、それよりずっと前だった。
 4年の間で、片手で足りるほどしか見ていない造形は、変わらず美しい。銀髪の奥に光る碧眼の双眸は、闇に潜む獣のよう。黒目黒髪の華よりも、人々を魅了する彼の方がよほど忌むべき者なのではないか。
 華は一国の王を前にしても、立ち上がり礼を払うどころか、顔を向けることすらしない。ちらりと視線をくべた後は、また闇しかない外を見る。
 誰が入ってこようと、華の態度は変わらない。何も聞こえず、何の関心も示さない。月明かりだけが頼りの薄暗い部屋に、ぼんやりと浮かび上がる青いベールを被った少女。
 共に入っていた護衛が、その光景に息を飲む。
 だがサイラスは臆することなく、平然と無礼を働く華に目を眇め、つかつかと近寄ると、いきなり被っていたベールをはぎ取った。

「この私が会いにきてやっているのだ。礼儀は払うべきだろう」

 高慢な物言いを、華は内心で嘲笑う。
 何を偉そうに。お前に払う礼儀があるなら、地べたを這う化け物にかしずく方がましだ。
 サイラスを見て、微かに首を傾げる。言葉が理解できないのだ、と強調した。
 この国の者が彼を賢王と呼ぼうと、華にとっては冷酷で非道な男だ。
 この塔で目覚めた時、すでにサイラスと華の婚儀は終わっていた。彼は花嫁の代役を立て、厚めのベールに細かな刺繍を施す事で国民の目から真実を隠した。顔の見えない王妃は、サイラスが出した公式発表で病弱を理由に全ての公務を側室のミラーナに任せている。というのが、表向きの体裁だ。
 本来、一番近くで華を支える存在であるはずが、誰よりも遠い場所から見下している。そんな男を誰が夫と認めよう。ましては礼儀を払うなど、馬鹿馬鹿しくてやってられない。
 言葉が理解できないふりをし続けているのは、華なりの抵抗だった。

(私の事は、放っておいて)

 忌むべき象徴とされる黒目で見つめられ、サイラスの表情が僅かに歪む。この男でも、伝説は恐ろしいのかと思うと、腹の底から冷笑がこみ上げてきた。
 何も語らず、口元だけに浮かべる微笑を「……ふん」と一笑に付すと、はぎ取ったレースをその場に放り投げた。興ざめした顔で踵を返す。
 
(馬鹿な人)

 実は全て理解しているのだと知れば、あの男はどんな顔をするのだろう。出ていく後ろ姿に目もくれず、華は床に落ちたベールを拾った。ベールを被る最中、耐えきれなかった笑みが零れた時だ。視線を感じた。
 サイラスと共にやってきた宰相ユーグの琥珀色の瞳が、華の様子を窺っている。全てを暴かれそうな鋭い視線、迂闊だったと動揺しながらも、何食わぬ顔でベールを深く被り直す。

「いつまで意地を通すおつもりですか?」

 ユーグは静かな声で問いかけた。彼の声はひやりとするほど冷たく聞こえる。
 思わず反応しそうになるが、そんなことをすれば彼の思うつぼだ。ぐっと奥歯を噛みしめながら無関心を貫く。その姿勢に「…まぁ、いいでしょう」と呟き、出て行った。
 静寂が戻った部屋で、華は足音が聞こえなくなるまで、じっと息をひそめていた。


☆★☆


 その夜、ドアの前で微かな物音がした。
 華付きの衛兵ロイドが、部屋の前に置かれた瓶を持ち上げ、代わりの小瓶を置く。中には町で買った虹色の飴玉がたくさん詰まっていた。

『お前か』

 不意に闇が揺れて、クローチが問いかけた。ロイドははっと振り返り、闇に向かって一礼を捧げる。聖獣は己が認めた者の前にしか姿を現さない。彼がロイドに許したのは、声を聞くことまでだ。

『咳止めだとよ』
「………」
『お前らは不器用同士だな。アイツが話せることは、教えたはずだ』

 クローチの声に、ロイドは無言を返す。

「これで、いいんです。俺は、彼女と言葉を交わせる身分ではありません」
『華がそんなの気にするかよ』
「それに、彼女がこの国の者を嫌っていることは知っています。悪戯に刺激したくない」
『だからこうして、小瓶でやり取りをしてるのか。本当、面倒くさいな』

 ロイドが華に出会ったのは、地下牢だった。
 満身創痍でかろうじて命を繋いでいる華を見た時の記憶は、今も鮮明に瞼に焼き付いている。
 本当に小さな少女だった。魔道士が召喚した「忌むべき者」。ロイドの役目は、彼女をひと目のつかない北塔に移すことだった。
 人間と共存こそしているが、半獣の地位は彼らより下だ。彼等が嫌う仕事は否応なく半獣達に回ってくる。それが華の移送だった。
 怪我をしている、とは聞いていたが、この傷は何だ。彼女の傍に捨てられていた鞭。牢へと向かう通路ですれ違った、紅潮した顔の魔道士を思い出す。あの魔道士が…?
 
『腹いせさ』

 不意に闇から聞こえた声が、ロイドに告げた。脳に直接響く声にさほど驚かなかったのは、それ以上の衝撃が目の前に広がっていたから。
 声はこれまでの経緯をロイドに話して聞かせた。
 間違えられて召喚された少女は、たまたまこの世界で恐れられていた容姿をしていた。ロイドはそう解釈せずにはいられなかった。それほど、少女の姿が哀れだったからだ。
 この塔に移送し、ロイドは華付きの衛兵を志願した。忌むべき者を守る兵を笑う者がほとんどだったが、ロイドは構わなかった。所詮、自分達は蔑まれる者。
 傷を塞ぎ、熱で浮かされる華の手を握る。それは泣きたくなるほど小さな手だ。
 朦朧とした意識でうわ言を言い続ける華。聞きなれない言葉の意味が「お母さん」であると聞かされ、胸をかきむしられるほど少女に同情した。
 なぜ、この子が。
 国を震撼させるほどの恐怖を与えたわけでもない。疫病をまき散らしたわけでもない。ただ、「忌むべき者」の姿をしていただけだ。

 以来、ロイドはこうしてドアの外に町で買った飴を入れた小瓶を置いている。どこにも行けない華を思って、少しでも彼女の心が安らかであるようにと祈りを込めたささやかな贈り物だ。
 それに珍重な薬の材料が入って置かれるようになったのは、衛兵になって2年目のことだった。
 国中の者が疎もうとも、ロイドだけは華の味方。夫からも見限られた小さな少女を、自分だけの姫だと錯覚し出したのは、いつからだったか。


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