第一章:第四話

 不愉快極まりない。
 あれを見た後は、決まって苛立ちが胸につかえた。
 鬱憤を側妃の体で晴らそうと一度は後宮に足を向けたが、今夜はそれもひどく億劫で、結局そのまま自室へと引き上げてきた。
 四角く切り取られた月を睨みながら、沸々と湧き立つ苛立ちを強い酒で流し込む。
 召喚して四年、未だに言葉ひとつ話せない女は、その風貌だけでも目障りなのに、会話も通じないとなれば、残るのは煙たさだけだ。
 生まれながらにして深淵の闇を身に纏うのが『忌むべき者』。
 その認識はサイラスの中で揺るぐことのない事実。
 だが、昼間ユーグと交わした会話のせいだろうか。久方ぶりに見たそれは、少し様相が違って見えた。
 月明かりの加減なのか、闇に僅かな紫が入り混じった瞳の中には小世界があった。床にすれるまで伸びた黒髪が月の光を浴びて黒真珠の如く神秘的な輝きを放ち、首を傾げるとさらりと揺れた。
 肌の露出がない質素な装い、微笑を浮かべた赤い唇。
 女の声を聞いたのは、召喚したあの日だけだ。何を言っているのかまるで理解できなかったが、足を抑えていた様子から痛みを訴えていたことは間違いない。
 手当を命じ、幽閉した。女はこの国にとって災いの種でしかない。そんなものをおいそれとひと目のある場所に置いておけるわけがなかった。
 王妃に求めるのは、知性と教養、時には王を支え、民を導く。その為には国民に愛される存在でなければいけない。
 サイラスの脳裏の浮かぶのは、召喚の間でのたうちまわる姿だ。全身を黒で染め上げたものが蠢く姿をおぞましいとさえ思った。
 だが后を召喚した以上、婚儀は避けられない。急きょ代役を立てさせ面目だけは保ったが、忌むべき者が現れた事実は変わらない。
 災いをもたらすと伝えられているが、具体的にどんな災いを呼ぶのかはどの文献にも記されてはいない。当然、防ぐ方法もない。
 女の命を盗れば防げるのか、それとも奪った時にそれが起こるのか。あれがどういう形で関係するのか。
 処遇に手をこまねいているというのが、現状だった。

「王妃を私に召し下げていただけませんか?」

 宰相ユーグの申し出があったのは、午後の執務を始めてすぐのことだった。サイラスはその言葉に目を通していた書簡の文章を一行飛ばした。

「何だと」
「王妃をいただきたい、と申し上げています」

 署名を促す時とおねじ声音でユーグが繰り返す。
 持っていた洋紙を執務机に置き、サイラスはこれみよがしに溜息をついた。

「何を馬鹿な事を。冬を目前に気でも触れたか?」
「いいえ、私は至って正常でございます」

 普段と変わらぬ物腰で告げるユーグを訝しげに見返す。

「王妃を病弱という名目の笠に隠して、四年が経ちました。お世継ぎの声が騒がしくなってきた昨今、一度も公の場に姿を見せない王妃に、貴族を始め不満の声が上がってきております。この辺りが潮時かと存じます。ぜひとも王妃には退位していただきたい。王妃は闘病の末の崩御とし、次の正妃にはこれまで精力的に公務の全てを代行されてきたミラーナ様が即位されるのが妥当かと存じます。幸い彼女は家柄も申し分有りませんし、彼女への信頼は陛下に次ぐものとなっております」
「お前はなぜあれを北塔へ幽閉したか、忘れたわけではあるまい」
「サイラス様こそ、私の嗜好をお忘れですか」

 『陛下』と呼ばずあえて名前を呼んだユーグは、サイラスの異母兄弟。サイラスの生母付きの侍女がユーグの母だ。幼少時代から共に育った二人は、どの兄弟よりも絆は深く、そこには確かな信頼があった。
 サイラスが玉座に就いた暁には、自らの宰相の地位へ昇りつめ、王を支えるべく現在に至る。サイラスを賢王へと導いたユーグの功績は大きい。
 だがこの男、多少性癖に難有りだった。

「異界から召喚した者。帰す術もない上、国に放すわけにも参りますまい。ぜひご検討のほど、よろしくお願い申し上げます」

 慇懃に下げた頭に、サイラスは眉を寄せた。
 冷淡な美貌を持つこの男は、この世のありとあらゆる奇怪な物を好むかなり奇天烈なところがある。文献でしか存在しないはずの『忌むべき者』が目の前に現れたとなれば、是が非でも手にいれたいと言うのが本音だろう。
 態度こそ慇懃だが、言っていることは無礼極まりない。王に向かって王妃を譲れなど、斬首覚悟でなければいけない台詞だ。
 だが、ユーグの言い分を頭ごなしに否定できないもの、また事実だった。
 いつまでもミラーナに王妃代行を務めさせることにも限界がきている。無冠の妃はどれだけ優秀でも、王の隣に立つにはそぐわない。
 そんなやり取りをしたせいか、サイラスは気まぐれで女の許を訪れた。こうして毎回、自ら足を運ぶことも億劫だというのが、数多ある足を遠のかせる理由のひとつだ。
 北塔にある女の間は、月明かりだけが頼りの薄暗く寒い部屋だった。
 薪の消えた室内は外気と大差ない室温で、留まっているだけで足元から冷えが上ってくる。簡素な調度品に囲まれて、女は窓際の椅子に腰かけていた。
 月明かりにぼんやりと浮かぶ蒼い居姿は、背筋を粟立たせる何かを醸し出していた。
 王を目の前にしても立ち上がることもなく、ベールすら取らない。何を言っても首を傾げるだけの存在は、悪戯に苛立ちを刺激するだけだった。
 ユーグはあれに何を見出したのか。

「分からん」

 吐き出した嘆息に、サイラスは目を伏せて自嘲した。
 分からないから、何だというのか。他の者が目をつけた途端、会いに行くなど随分らしくない事をしたものだ。
 浅はかな行動を一蹴して、サイラスは残りの酒を一気に煽った。


☆★☆

 華の一日は、海から吹く風の音で始まる。
 カタカタ……と窓を揺らし、部屋を埋め尽くしていた闇が光に沈む。窓際に寄せたベッドで身を丸めて眠っていた華は、瞼に感じる朝の気配に目を覚ました。
 毛布を剥いだ途端、ぶるりと冷気に体が震えた。内履きに足を通し、窓を開ける。内扉を開けて二畳ほどの小部屋にある樽の栓を捻り、必要な分だけ水を汲む。その水で身支度の全てを済ますのだ。
 顔を洗い、口をゆすぐ。生活に必要な道具は揃っているので、侍女が居なくても十分間に合っている。
 一度も切らずにいた髪も、随分伸びた。戸棚から櫛を取り出し、毛先の方から順に丁寧に梳いて、服を着替えれば全てが整う。後は窓際の椅子に座り、夜になるのを待てばいいだけだ。そうすればクローチが来て、この部屋から連れ出してくれる。
 椅子にかけたベールに手をかけた時、ふと昨日置いた小瓶の存在を思い出した。
 あの人は気づいてくれただろうか。
 そっとドアを押し開くと、

(あ、新しい瓶がある)

 昨夜、華が置いた物とは違う真新しい瓶を見つけて、頬が緩んだ。
 右足を庇いながらしゃがみ、手に取る。ゆっくりと立ち上がり、大切にそれを抱えて部屋に戻った。窓際に近づき目の高さまで持ち上げれば、虹色の飴が七色の光で部屋を照らす。
 華は特にこの虹色の飴が大好きだった。甘いのかと思えば、ほのかな酸味に変わる不思議な味。
 七色は光にかざせばより鮮やかに彩る。小瓶の中で光が交錯し、瓶全体が大きな宝石みたいになるのだ。それを眺めながらひとつずつ飴を食べるのが、華の少ない楽しみのひとつだった。

「綺麗」

 朝の冷気混じりの日差しは、とりわけ瓶を鮮やかに輝かす。
 ひとしきり堪能していると、階下から上がってくる足音が聞こえた。侍女が衛兵を伴って朝食を持ってきたのだ。
 華は急いでそれを引き出しにしまい、ベールを手に取る。被りながら椅子に腰かけようとしたところでバランスがくずれた。 
 ドアを叩く音と、華が床に転ぶ音が重なる。
 刹那、共に昇って来た風がベールの中に潜った。ふわりと持ちあがった蒼いベールが来訪者の前に容赦なくその姿を晒す。
 「あ……」小さな叫び声を上げた時には、大きな影が華を覆っていた。


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