第一章:第伍話

 華の体をすっぽりと覆う影。顔を上げると、狼の面が華を見下ろしていた。

「何事?」

 華の前に跪く衛兵に、侍女が訝しげな声をかける。
 巨体に隠れているが、角度が変われば華の姿は見られてしまう。この姿を見られでもしたら。
 ゾクリ…と背筋に悪寒が走る。蒼白になる華を見て、彼は僅かに目を細めた。
 
「何でも無い。食事をそこに置いて下がれ」

 抑揚のない低音に、侍女がムッとする。が、言われた通り食事を床に置いて階段を降りて行った。足音が聞こえなくなるまで彼は微動だにしない。そうして静寂が戻るとようやく立ち上がり、落ちたベールを拾って華の前に差し出した。

「お怪我はありませんか」

 華の何倍もある大きな手。右手は人間だが、左手は獣のそれだ。人間の手が差し出すベールと彼を、華は交互に見遣る。
 手を伸ばしてもいいのかが分からなかった。
 自分はこの国に歓迎されていない。手を伸ばした途端、怯えられるかと思うと恐ろしくて動けない。
 華の戸惑いを違う意味で捕らえた衛兵は、持っていたベールを華の前に置いた。

「失礼いたしました」

 言って、三度立ち上がり入口に置かれた朝食を、テーブルの上に乗せる。無言で立ち去さろうとする背中に、華は焦っていた。

(待って、待って、待って!)

「ぁ……」

 クローチ以外に向けて発した、声。あの日以来、アルタイヌ人への言葉を断った華が見せた、小さな小さな変化。
 彼女の悲劇を誰よりも傍で見続けてきた彼だからこそ、それは目を見張るほどの驚愕をもたらした。
 獣の目が、逸らされることなく華を凝視する。しかし表情の少ない面は、とらえようによっては睨んでいるようにも見える。
 華は視線の強さに堪え切れず、すぐに顔を伏せた。
 話しかけては駄目だったのか。
 後悔に沈みかけた時、

「私に、何か」

 ロイドが体を返し、床に片膝をついた。
 返ってきた言葉に華は慌てて体を起こそうともがく。椅子を支えに立ち上がろうとするが、焦りが体の動作を鈍らせた。

「あ……の、あの」

 出ていかれまいと必死に言葉を紡ぎながら、体を持ち上げる。刹那、「失礼します」低音が響いた時にはふわりと華の体は宙に持ち上げられていた。

「わ……」

 先ほどよりも一段と近くなった距離。久方ぶりの他人の温もりに、華が体を強張らせた。
 ロイドは丁寧に華を椅子の上へと下ろす。その後、置きっぱなしになっているベールをそっと彼女に被せた。

「ご無礼をお許し下さい」

 下げられた頭に、そうじゃないと焦る。
 
「あ、……ありが、とう」

 謝ってほしかったわけじゃない。お礼が言いたかったんだ。
 華の姿を侍女の視線から庇ってくれた事。忌むべき者を助け起こしてくれた事、これまでの小瓶の事。なにより今、華に話しかけてくれたことに感謝を伝えたかった。

「ありがとう、ありがとう」

 アルタイヌ語は上手く話せているだろうか。イントネーションは間違っていないか。
 クローチと話す時は、日本語のままだから、この国の言語をクローチ以外に使うのは彼が初めてだった。
 言葉を覚えたての幼子のように、何度も同じ言葉を繰り返す華を彼は無言で見つめている。
 その姿に伝わっていないのでは、と不安になった華はまたありがとうと伝え直した。

「……もう、十分です」

 掠れ声は、かすかに震えているようにも聞こえる。もしかして言い間違ったのでは、と表情を翳らすと、「しかとお気持ちは受け取りました」と声が続いた。

「私の、言葉。おかしくないですか。発音も合ってますか?」
「――はい」
「良かった」

 胸を撫でおろす華を、彼は無言で見つめていた。
 久しぶりの会話に高揚している華は、彼が見つめる理由はすぐには思い当たらなかった。だが、それが自分の目であり髪の色だと思い出すと、傷心に眼差しを揺らしベールを目深に被った。

「ごめんなさい。――気持ち悪いですね」

 自分が忌むべき者という事実に今更ながら傷つき、俯く。

「ごめんなさい。もう呼び止めたり……しませ」
「お美しい、と思っています」
「え……」
「姫は、お美しい方と認識しております」
「え、……あの、姫って」
「あなたです」

 美しいとか、姫だとか。聞いた事もない単語に華は面食らった。数秒前の後悔も忘れ、狼の面を真っ直ぐ見つめる。
 彼は正式な礼の姿勢を取ると、華に頭を垂れた。

「私はロイド。四年前より王妃専属の衛兵を務めております。どうぞお見知りおき下さい」
「こ、こちらこそ。高崎 華(たかさき はな)です。よろしくお願いします」

 下げたままの頭に、華も頭を下げた。だが華が顔を上げてもロイドはまだ頭を垂れたままだ。

(な、なんで?)

 ――面を上げよ、と言え――

 不意に頭の中に響いたクローチの声に、ハッとする。
 自覚はなくとも華はこの国では王に次ぐ権力者。最敬礼は王の許しなくして、頭を上げてはいけないのだということを初めて聞かされる。

「あ、頭を上げて下さいっ」
「ありがとうございます」

 恭しい礼から解放されて、安堵の息をついた。

「私のような獣人が姫の警護ではご不快に思われていることでしょう。本来なら王宮の最奥で直属の衛兵に守られるべきお立場。私が言葉を交わすことなど許されない方です」
「そ、…うなんですか?」

 自分の地位がどれほどのものかなど、考えたこともなかった。自分はいつだってこの国の厄介者だという認識しか華には無い。
 ロイドの恭しい言葉遣いも何だか違和感を覚える。
 華は誰かに傅かれる身分になった覚えなどないのだから。
 怪訝な顔を見せる華に、ロイドは少しだけ困った風に目を眇めた。四年ぶりの会話になれていない華は、その仕草に気を悪くさせたのかと思い「ごめんなさい」と呟き視線を下げる。
 やっと話ができたのに。
 彼に嫌われたくなかった。
 けれど、表情少ない獣面から人との関わりから遠ざかっていた華が感情を読み解くのは、いささか難しかった。
 どうしていいか割らずに口籠ると、

「もう、謝らないで下さい」

 ロイドが言った。
 華にも分かるほど痛々しい声音に驚き、顔を上げる。目が合うと、つぶらな双眸がやはり痛ましげに華を見ていた。

「謝らなければいけないのは、私達の方です」


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