第一章:第六話

 ロイドの神妙な面持ちに、華はいよいよ訝しげに眉を潜めた。
 一体、何を詫びることがあるのか。
 言葉の続きを待つと、ロイドは再び深く頭を垂れた。

「えっ……」
「申しわけございません」
「な、んの事ですか」
「間違いを犯し続けていることです」

 告白に華は目を大きく見開かせた。
 「忌むべき者」である華にアルタイヌ人が頭を下げて詫びている。この瞬間は、本当に現実なのだろうか。

「私などが詫びたところで姫の心が静まるとは思っておりません。ですが」

 詫びるという行為が華にとってどれほど衝撃的なことなのか、ロイドは気づいていない。
 言葉を失った華のもたらす無言を受けて、頭は更に深く下がった。

「姫は“忌むべき者”などでない。そう呼ばれる者と同じ姿をしていただけなのです。私はその事実を知りながら我が身かわいさゆえに事実から目を背け続けました。街で買った菓子程度で、少しでもお心が癒えるようにと――いいえ、違います。私は己の卑怯さをごまかしたかったのです。贈った飴は贖罪のつもりでした」

 いっきに胸のうちを晒したロイドを、華は茫然と見下ろしていた。
 今は床に張り付きそうなほど下がった頭を食い入るように見つめている。
 涙が一粒零れ落ちた。

「……っ」

 詰まらせた声に、ロイドははっと顔を上げた。
 はらはらと大きな瞳から流れる涙に瞠目すると、華の倍ほどある巨体をうろたえさせた。

「ひ、姫様」

 違う、姫などではない。
 華は俯き首を振る。
 ロイドの言葉に嘘は感じられない。語った思いはすべて本音だ。
 だからこそ、嬉しかった。
 誰からも見向きもされなかった四年の歳月は、孤独だった。向けられるのは蔑みと嫌悪のまなざし、化け物と罵った者達の声は幾度も心を抉った。
 彼の思惑はどうであれ、飴を見つけた朝はいつもより少し清々しさを感じた。
 声をかけても煙たがることもなく、華の言葉に耳を傾けてくれた姿勢がどれほど嬉しかったか。
 もう枯れ果てたと思っていたのに、まだ自分は涙を流すことができたんだ。
 心ない世界で凍えていた心にようやく射した春の木漏れ日のように、ロイドの言葉が華の孤独を溶かしていく。

「……ありが、と」
「姫」
「飴、嬉しかったです。気遣ってくれて……ありがとう。あなたのせいじゃ無いのに、嫌な思いさせて、ごめんなさい」

 両手で顔を覆い小さな嗚咽をあげる華に、困惑したのはロイドだ。
 出会った当時のまま変わらない小さな体躯は、背中を丸めるとさらに小さく見えた。
 あまりにも儚い存在が震える様に、思わず手を差し伸べずにはいられない。腕を伸ばし、小さな少女をそっと囲う。獣の手で背中をさすり、人の手で頭部を撫でた。
 罵られる覚悟でいたロイドは、過酷な環境に置かれながらも他人をおもんばかる少女の健気さに胸が詰まった。
 命に代えても守りたい。
 ロイドの胸に確固たる信念となって宿った思いだ。
 
「国中があなたを咎めようとも、私は必ずお側におります。どうかあなたに忠誠を誓わせて下さい」

 華はぎゅっと目をつぶり、冷たい甲冑に額を押しつけて泣いた。


☆★☆


 その夜の歌声はいつになく伸びやかに霊峰へ響き渡った。
 子守唄にしてはやや華やかな歌声に、側でくつろいでいたクローチがむくり、と顔を上げた。

『ご機嫌だな、おい』

 今朝の出来事を嬉々として話した華の姿を思い出し、クローチが苦笑して言った。

「うん! わたしのアルタイヌ語もおかしくないって言ってたよ。クローチと練習した成果だね!」
『特訓した甲斐があったじゃないか。何だっけ? 意味のわからない言葉で馬鹿にされるのは癪だ、っつって始めたんだよな』
「いいじゃない、私は陰湿なのよ」
『可愛らしい陰湿者で』

 くつくつ笑うクローチにムッと口を尖らせ、華は岩から慎重に腰を上げた。
 聞こえていたヨーマの声も、今は風の音しか聞こえない。
 どうやら今夜も眠りに落ちてくれたようだ。

「ねぇ、あの子はいつか目を覚ますの?」

 風になびく髪を手で押さえて何気なく問いかけた。
 ヨーマの眠りを守ることが華に課せられた使命。だが最近感じている違和感は、不安という形になって心に燻っている。
 ヨーマの声が大きくなってきているのだ。

『あぁ、目覚める』
「いつ?」
『力の均衡が崩れた時だ』
「力の均衡? 何との」
『俺とのだ』

 華は眉を潜めた。
 クローチは他人事のように、風に舞う胞子の羽根を眺めている。

『俺はちょっとばかり長く生きすぎたのかもな』
「何言って……、聖獣は永遠なんじゃ」

 思いもよらない台詞に驚き否定すると、遠くを見ていた眼差しが華に向けられた。紫色の瞳に宿る深い悲愴を見つけて華は息を飲んだ。

『永遠、か。――華、俺達はあとどれくらいの死を見とどけて行くんだろうな』
「どうしたの、急にそんなこと言って」
『華、覚えておけよ。出会いと別れは相対だ。どれほど心寄せた相手だろうと、俺達は確実にその者の死を見る。それが永遠を手に入れた者が払う対価だ。ロイドともいずれその日が来ることを忘れるな』

 クローチの言葉は諭すようでありながらも、滲む悲しみがあった。
 まるで永遠が罪だと言わんばかりの口ぶりは、彼の経験が言わせたもの。過ぎ去った時間に目を細める姿を見つめていると、ふと華はとある考えに思い至った。

 クローチは永遠を望んでいなかったのではないか。

 四年の時を共に過ごしながら、華はクローチのことを何も知らなかった。
 彼がこれまでどんな人生を歩んできたのかも、なぜこの国の聖獣なのかも聞いた事が無い。始めからそうであったから、何の疑問も抱かなかった。
 だが、人生の軌跡は等しくある。華に日本で過ごした十五年があるように、クローチにだって軌跡はあるはずなのだ。
 なのに華はそれに目を向けようとしてこなかった。
 生きることに精一杯だった。そう言えば聞こえは良いが、本当にそうだったのだろうか。
 アルタイヌ国が華を切り捨てたから、華もこの世界を排除してきた。歌うことが命を繋ぐことだからそうしてきた。
 考えること、知ろうとすること。諦めという免罪符に逃げて、何ひとつ見てこなかった。
 自分だけの世界に閉じこもってきたから、何に対しても興味を抱かなかったのだ。
 根本的な疑問は常に目の前にあったのに。

 ――どうして私はこの世界に召喚されたの――

 ロイドとの出会いが、華の中に小さな変化を芽吹かせた。
 目を開き、耳を傾けること。
 華が声を発したから、ロイドとの間に新たな関係が生まれた。
 漠然と時間を過ごすのではなく、生きることに意味を見いだす努力を。
 そうすれば、今よりも少しは生きやすくなるのかも知れない。
 今はまだ何に生きる価値を見いだせば良いかも分からないけれど、クローチにこんな悲しい目をさせては駄目だ。
 ヨーマが目覚める時は、クローチの力が衰えた時。
 その時、自分に何ができるだろう。
 間違えられた存在なのに、使命が待っていたのはなぜなのか。

「ねぇ、クローチ。いつかあなたの話を聞かせてくれる?」

 答えはすべて彼が持っているのだ。
 何も語らなかったのは、華が知ろうとしなかっただけのこと。
 問いかけにクローチはふと目元をほころばせた。

『おいおいな』

 ほら。

「うん、待ってる」

 華は頷き、そっと彼の体に手を這わせた。

「今まで、ごめんね」
『何のことだ?』

 とぼける顔に頬をすり寄せ、華は親愛の口づけを落とした。

「大好きよ」
『ばっ……、くだらんことをするな!』

 前足を上げてクイクイと唇が触れた部分を拭う仕草の可愛さに、思わず笑いがこみ上げてくる。純な反応を笑うと、珍しくクローチが憮然とした。

『お前、今日はひとりで帰れ』
「えっ、やだ。ちょっと待ってよ!」

 いきなり羽根を羽ばたかせたクローチに背に慌てて飛び乗る。いつもより乱暴な飛び立ちに小さく悲鳴を上げて、振り落とされないようぎゅっと彼の首に掴まった。

「し、信じられないっ。本当に置いてくつもりだったの!」
『あ? 何か言ったか』
「……っ、何でもないです」

 子供じみた腹いせに憤慨したのも一時で、見上げる夜景の美しさに心はあっという間に凪いでいく。
 霊峰を抜けると眼下に広がるのは一面の海。波間に煌めく月の光は海の宝石みたいだ。

「奇麗ね」
『あぁ、俺達が守ってるものだ』

 俺ではなく俺達と告げられた言葉に、華は頬を弛めた。
 守っている、というたいそうな使命感はまだないけれど、歌い続けることで彼を守れるのなら、そうなのだろう。
 兎の影を宿す赤い月を横切り、ほどなくして異空間へ入った。
 抜ければ、そこは北塔の部屋だ。
 月明かりしかない、薄暗い部屋。

『華、アレの気配がドアの前に残ってる』
「アレ?」
『ロイドだ』

 驚き華はドアをそっと押し開けた。
 カラン。
 刹那、石床に軽い音が響いた。

「あ……」

 転がったのは、杖だった。


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