第一章:第七話

『華、どうかしたのか』

 後ろからひょっこり顔を出したクローチが、華が凝視している物を見て「へぇ〜」と尻上がりな声を上げた。

「クローチ、これって」
『杖だな』
「だよね。でも――なんで?」
『なんでって、そりゃ、お前の為だろ』
「私の?」

 驚きながらも華はゆっくりとした仕草で膝を折り、転がった杖を拾った。それは華の背丈にちょうど良い長さだった。

「ぴったりだ」
『だろ? 良かったな。それで少しは歩きやすくなるぞ』
「うん」

 頷いて、じっと杖を見る。
 しっくりと手に馴染むそれは既製品らしからぬ高級感を漂わせている。
 アルタイヌの暮らしぶりはそれほど豊かなんだろうか。
 華の疑問に答えるようにクローチが感慨めいた声で唸った。

『アイツ、頑張ったなぁ。それヌルルの木だぞ。ここら辺じゃなかなかお目にかかれない希少な木材だ。森の奥深い場所にしか生息していない植物で、それが自生している場所はたいてい竜がいる』

 竜の言葉に、華の顔がサッと青くなった。
 気性が荒く、縄張り意識の強い種族だ。そんなところで遭遇したら、まず無事ではすまない。

『狼系の獣人なら自力で採りにいけなくもないが、それでも行って帰ってくるだけで三日はかかる。四六時中衛兵やってる男にそんな暇はないだろうし、十中八九買ったんだろう。どれだけの大枚をはたいてコレを手に入れたんだか。あの男の年収は半分くらい飛んだんじゃないか?』
「う、そ……。そんなにするのっ」

 クローチの言葉に、ますます顔を青くさせて杖を凝視した。
 これ一本で半年生きられる。アルタイヌの生活水準は知らなくても、この杖がどの程度高価な物かは今の説明で十分伝わった。どうして彼はそんな高価な物を買い求めたのだろう。

『見ろよ、飾り彫りも一流だぜ』

 丁寧に磨かれた杖は白磁のような色合いを放っている。もち手部分に細工された飾り彫りの精巧さが美しかった。

『いつから用意してたんだろうな』

 ロイドと言葉を交わせたのは、まだ今朝のことだ。
 クローチの言葉通りだとすれば、渡せるあてのない物の為に貴重な財を使ってくれたということだ。
 込められた彼の気持ちに胸が熱くなった。

「クローチ、外に誰もいない?」
『あぁ、ロイドだけだ』
「私、お礼言ってくる!」

 気色ばんだ声を残して、華が部屋の扉を開けた。
 初めて自らの意志でこの部屋を飛び出して行った姿に、クローチは目を細めて見送った。


 天窓から差し込む月明かりだけが頼りの、壁を伝う螺旋階段をはやる気持ちを押さえて慎重に下りる。ロイドからもらった杖のおかげで随分安定して歩けていた。
 十メートルほどの高さを下ると、入口に佇む巨体が見えた。

「あ……」

 てっきり前を向いていると思っていたのに。
 驚き顔のロイドと目が合い、思わずその場に立ち止まった。
 自室を出たことに驚いているとは思いもしない華は、どうしたのだろうと首を傾げてすぐ自分の格好を思い出した。
 外に出ていた恰好のまま飛び出してきたせいで、ベールを被ってくるのを忘れてきたのだ。
 醜い姿に驚いたのだと思い、咄嗟に顔を伏せた。

「姫……、様?」

 それでも声をかけてくれたことに励まされ、再び顔を上げる。
 今は落ち込むことよりも、大事な用事があるのだ。

「あ、あの。ロイド、さん」

 華は急いで足を動かした。しかし、この四年。運動らしい運動をしてこなかった体は思っていた以上に重たく、鈍い。膝も随分硬くなっていた。
 おぼつかない足取りは、今にも転げ落ちそうだ。
 見兼ねたロイドが持ち場を離れ、階段を上り始めた。

「失礼します」

 言うや否や、華を抱き上げる。
 瞬く間に階下にたどり着き、慎重に端を床に下ろすと、ロイドはその前に跪いた。

「ご無礼をお許しください」
「い、いいえ。私こそ、ごめんなさい」

 それきり、会話が途絶えた。

(え…っと、――どうしよう。きっかけがない)

 何を話していいか分からない華と、華の言葉を待つロイドでは会話が進まない。沈黙は悪戯に華を急かすだけだ。

(何か喋らないと)

「あ、の」

 思い切って口火を切った華に、ロイドは若干顔を伏せた。

「あの、これロイドさんがくれたんですよね?」
「ロイドで構いません。姫」

 言われた言葉に、華は口ごもった。
 自分を最下位にしか見ることができない華にとって、自分よりも巨体で、かつ言葉を交わして間もない相手をいきなり呼び捨てにすることは、無礼極まりない行為にしか思えない。
 だが、顔を上げた目の真摯さを前に「無理だ」とも言い出せなかった。
 考えあぐねた末に、出した答えが、

「それじゃ、私のことも華と呼んでください」
「できません」
「お願いします」

 この世界で華の名を呼ぶのは、クローチだけだ。
 アルタイヌ人であるロイドに名を呼んでもらうことで、少しだけこの国に自分の居場所ができたとは思えないだろうか。
 交換条件のはずが懇願の眼差しを向ける華に、ロイドがたじろいだ。

「……では、華様と」

 それにも小さく首を振れば、ロイドも困ったように首を振り返した。

「私の立場をご理解願えませんか」

 華にはどうでもいい地位でも、ロイドにとって華はこの国の王妃。間違っても敬称を外して呼ぶことなどできるはずがなかった。
 立場を持ち出されてしまえば、反論の余地はない。
 誰よりも見下されている自分が、この国の王妃なのだから、嫌な現実だ。
 しばらく足下を見ていた華が、コクリ…と頷いた。

「ありがとうございます」

 安堵の声に顔を上げて、「あの…」と呼びかける。

「これ、」
「出過ぎたことだと存じ上げております。申しわけございません」
「ち、違うんです。お礼が言いたくて、――ありがとうございました」

 深々と頭を下げかければ、ロイドに止められた。

「華様、お止めください」
「でも」
「お気持ちだけで身に余る光栄です」

 代わりに深々と頭を下げたロイドに、胸が締めつけられた。息苦しさに目を細める。
 名ばかりの王妃に礼儀を尽くさなければいけない彼がとても不憫だった。
 自分の衛兵になったばかりに。
 入り口から入る風がさわり…、と華の髪を揺らす。冷たい風だ。

「……ごめんなさい」
「なぜ謝るのですか」

 自分の境遇に彼を巻き込んでしまっていることが申しわけなかった。
 ロイドは華の為に杖を作り、この現状に心を痛めてくれていた。だが尽くしてもらったところで、華は何ひとつ彼に返すものがない。
 華は視線を入り口に向けた。
 四年居て、初めて北塔の寒さに気がついた。
 警護をする者はこれに耐えなければいけない。することもなく終日立ち続けることは、決して優しい任務ではないはずだ。

「私なんかのせいでこんな、……ごめんなさい。警護が嫌になったらいつでも辞めてくれて良いです」

 『忌むべき者』の警護など、誰が好んでするだろう。よりやりがいのある任務は、いくらでもあるはずだ。
 彼が望むのなら、サイラスにかけあっても良いと思った。あの男が華の言葉に耳を貸すとは到底思えないが、華がロイドの為にできることはそれくらいしかない。

「私のことなら大丈夫です。誰にも迷惑をかけるつもりは」
「迷惑などと微塵も思っていません」

 強い口調が、華の言葉を遮った。
 目を瞬かせ、膝をついてもさほど視線の高さが変わらないロイドの双眸を見た。

「この任は私が望んだことです。華様は私を煙たいとお思いですか」
「そんなことっ」
「ではこれまでどおり、警護をさせてください」
「でも、本当に申しわけなくて。ここ寒いしっ」
「私は人間よりも頑丈なのです。毛皮もありますから」

 言って、左腕を見せる。
 黒い毛並みは確かに温かそうだ。思わず手を伸ばしかけて、はたっとその手を引っ込めた。
 つい、触ってみたいと思ってしまった。
 小さない声で非礼を詫びると、「どうぞ」と逆に気を遣われた。

「良いんですか?」

 頷きに、戸惑いながら手を伸ばす。

(わ、……少し硬い?)

 クローチの毛質は柔らかく一本が細い。ロイドはそれよりは剛毛だが、艶めいていて、素晴らしい感触だった。
 よく見れば、毛先が枝分かれしている。クローチほど長くもない。
 しげしげと見入りながら、何度も撫でて感触を楽しむ。時折、指で摘まみ、じっくりと毛質を観察した。

「――華様、そろそろ」
「え、あっ――! ご、ごめんなさい」

 ロイドの困惑ぎみの制止がなければ、いつまでも触っていただろう。慌てて手を放した。

「いえ、ご堪能していただけたのなら」

 恥ずかしさに声が出ない華を見遣り、ロイドが僅かに笑みを零した。

(あ……、笑った)

 獣の顔が笑うことはないが、確かに今、華にはロイドが微笑んだように見えた。

「華様、ここは冷えます。お部屋にお戻りください」

 立ち上がり、自室へ戻るよう促した。それに華が少しだけ寂しげな視線を投げかけた。
 もう少し彼と話していたい。
 だがそんな我が儘を口にする勇気も出ず頷くと、「私はいつもここにおります」と言われた。
 まるで華の心を読み取ったような言葉に驚き、ロイドを振り仰いだ。

「華様の退屈しのぎ程度にはお役に立てれば、ですが」
「また、来ても良いんですか?」

 頷く顔に、華はぱっと表情を明るくさせた。

「ありがとう」

 心から出た「ありがとう」に、月明かりに照らされたロイドの表情も明るかった。
 


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