第一章:第八話

(クローチ、近くに人はいる?)

『いない』

 姿なきクローチから答えが返ってくると、華はベッド下に隠してある杖を取り出し、そっとドアを開けた。
 ゆっくりとした歩みで階段を下りる。階下にたどり着く頃には入り口に佇んでいるロイドがこちらを向いて見守っていた。

「おはよう、ロイド」
「おはようございます、華様」

 挨拶を交わす華は破顔していた。
 ロイドも華に歩み寄り、歩行の介助に手を差し出す。案内されたのは、塔の壁に置かれた丸椅子だ。
 ちょうどロイドの体で華がすっぽりと隠れてしまう位置にあるので、一見すれば普段の光景となんら変わらない。話し声も二人だけに聞こえる小さなものであるよう努めていた。
 ロイドに会いに来る時だけ、華はベールを外している。
 彼はこの姿を見ても嫌悪することはないし、歩行には邪魔だった。
 今、ロイドという新しい友人を迎え入れた華の世界は楽しげに輝いている。

「もうすっかり杖にも慣れましたね」
「うん、部屋でも歩く練習しているの」
「時々、歩いている音が聞こえます」
「ほんと? ごめんなさい、うるさかった?」
「いいえ」
「良かった」

 にこりと笑って、華は足を揺らしながら鼻歌を歌い始めた。小さな旋律は優しく塔に木霊する。
 この塔で鼻歌を歌うようになったのも、ロイドと言葉を交わすようになってからだ。
 嬉しい時に口ずさむ歌は、心なしか軽やかに聞こえた。
 ロイドは懐に隠してあった焼き菓子を華に差し出す。

「ありがとう」

 嬉しそうに笑い、早速それを口に運んだ。
 ココナツに似た甘さがふわりと口に広がる。表面にまぶされた砂糖が昔良く食べたサブレを思い出させた。サクサク感がたまらない。

「美味しいね、これも市場で買って来たの?」
「はい」
「懐かしい味。小さい頃こんな感じのお菓子をね、食べてたの」
「華様の世界でもコーリナがあるのですか?」

 コーリナを頬張りながら、華がふふっと笑った。

「これじゃないけど、似た味はあったよ。それこそ世界中の美味しい物がひとつの都市で食べられたんだから」
「贅沢ですね」
「アルタイヌもそうなんでしょう? 貿易が盛んだって」

 華の問いかけにロイドは頷いた。

「アルタイヌは海と大地、両方の恵みを受けることができることに加え、貿易航路も確立されているので同盟国からの輸入品などもたくさん市場に並びます。とりわけ霊峰から採れる鉱山は大変貴重で、おのずと腕の良い細工職人が大勢集まっており、この国の宝飾品は高値で取引されています。華様はご覧になったことはありませんか? 陛下の耳飾りになっている蒼い宝玉です」
「あ〜、気にしたことない…かな」
「今度陛下がお見えになられた時に、ご覧になれますよ」

 今度がいつになることか。
 年に一度来るか来ないかの男の顔など、できれば金輪際見たくない。
 華は曖昧に頷いてみせた。

「同盟国から持ち込まれた輸入品の中には、華様の好きな虹色の飴も入っているのですよ」
「え、そうなの? てっきりアルタイヌで作ってるのかと思ってた」
「もちろん、加工はそうですが材料は輸入品です。あの色合いを出せる砂糖は、霊峰を超えた隣国だけに自生する葦が原材料なのです。子ども時代は誰もが好きになる味です」
「……それって、私が子どもだって言ってる?」

 言葉尻に感じた微かなからかいに口を尖らせると、ロイドは真面目な顔で答えた。

「愛らしいと思っていますが?」
「あぅ、……そうじゃなくてっ」

 恥ずかしげもなく、なんて台詞を言うんだろう。
 外見こそ幼いままだが、年はとっくに成人を超えている。
 じわりと顔が赤くなるのを、じろりとねめつけることで隠した。
 ロイドの言葉はどれも実直で飾りけが無い分、心にまっすぐ響いてくる。彼の言葉ひとつひとつが本心だと感じられる分、ときどき華は鼓動を早くさせる時があった。そして、こんな風に会話のキャッチボールが上手くできないことも度々だ。
 華を「愛らしい」と臆面もなく言うロイド。家族にすら言われなかった言葉に心が高鳴らないわけがない。
 味わったことのない高揚感に、華は視線を下げた。
 会話をする分だけ、華の中でロイドが息づいてくるのを感じる。
 そんな華を見るロイドの雰囲気が優しいから、ますます困惑してしまう。

(反則だわ)

 この気持ちは何て表現すれば良いのだろう。
 まだ明確な名前のない感情を一旦脇に置いて、華は話題を元に戻した。

「市場かぁ、賑やかなんだろうな」

 華が見れる世界はこの塔から見る海と、夜のアルタイヌ国だけ。
 霊峰の絶景は贅沢だが、人が溢れる喧噪を味わうことはこの先、一生ないだろう。
 そう思うと、おのずと心が翳る。

「――申しわけありません」

 すべてこの姿のせいなのだが、ロイドの傷心が滲んだ声に慌てて首を振った。

「ち、違うよ。ロイドのせいじゃないもの。四年も経てば私だって自分の立場くらい知るよ。人からどう見られてるかも、どんな不安を与えているかもね。……もし、ひとつでも私の容姿が『忌むべき者』に当てはまらなかったらどうなっていたんだろう、って考えることはあるけど」
「華様……」
「往生際が悪いよね。生きてるだけでも奇跡なのに」

 クローチと交わした契約が無ければ、華は生きていなかった。
 あの時、生きることを選んだのは自分自身だ。

『華、人が来るぞ』

 心の闇に沈みかけた時、クローチの声が響いた。
 声だけは聞くことができるロイドが、途端に表情を引き締める。

「華様、お早く」
「うん、ごめんね」

 ベールもない今、この姿を人に見られでもしたら面倒だ。なにより自分と話していた為にロイドにも蔑みの目を向けられたくない。
 華は慣れた仕草で杖を使い、階段を上がる。
 扉に滑り込んだところで、階下に人の気配を感じた。
 杖をベッド下に転がし、椅子にかけてあったベールを被る。定位置に座ったところでドアがあおもむろに開いた。
 目をやれば、噂をしていた男が立っている。銀髪を彩る鮮やかな蒼の耳飾りに初めて気がついた。

(来なくて良いのに)

 話に上げなければ良かったとげんなりして、視線を窓の外に向けた。
 宝玉は美しかったが、つけている男に興味がない以上、見ている理由は無い。
 適当にやりすごせば、すぐに出て行く男だ。

「甘い香りがするな」

 華の思惑とは裏腹にサイラスが呟いた。
 胸の内側がひやりと冷たくなる。先ほど食べたコーリナの残り香があるのだ。
 だがここで反応を見せれば言葉が通じている事を知られてしまう。
 何の反応もしない華を承知の上なのか、いつもなら憤るか蔑むはずのサイラスが鼻白み、近づいてきた。
 これには華も顔を向ける。

(何の用よ)

 胡乱な眼差しで見上げると、

「海風は色んなものを運んでくるのだ」

 独り言のような脈絡のない言葉を呟いて、顔を寄せた。
 恐ろしいほど精巧な美貌が至近まで迫る。

「お前、話せるのだろう。なぜ声を出さん」

 碧眼の双眸が華をのぞき込んだ。

「ここ数日、たびたび女の歌声に混じり笑い声が聞こえると報告があった。――お前だな」

 言い当てられて、心臓が縮んだ。
 あんな小さな声が。
 動揺を悟られまいと表情を殺していると、サイラスがふと目を眇めて体を起こした。

「衛兵をここへ」

 命令にサイラス付きの近衛兵がロイドを連れて来た。

「この者に何らかの変化があれば、必ず報告するよう命じてあったはずだ。なぜ何も上がってこない」
「申しわけございません」
「申し開きはないのだな」
「はい」
「よかろう、この者に懲罰を」

 淡々と進む会話に目を剥いたのは、華だった。
 横暴としか思えない処罰を受けて、両脇を抱えるように引っ立てられるロイドの姿に立ち上がった。

「待って! 止めてっ!!」

 叫び、ロイドの元へ駆け寄る。が、踏み出した脚がぐらり…とバランスを崩した。
 前につんのめりそうになって、咄嗟に手近な物に手を伸ばす。
 だが、次の瞬間。華の体は真逆の方へと傾いだ。

「私に触れるな」

 サイラスが華の腕は払ったからだ。

「華様!!」

 ロイドの声と華が床に倒れる音が重なった。


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